大崎家臣・渋谷氏の居城で大崎合戦で重要な役割を果たした城

桑折城こおりじょう

桑折城跡 提供元:陸奥の城 様


1.城データ

築城年

  • 16世紀~

築城者

     
  • 不 明

別名

  • 内館城
  • 大崎城
  • 小野木古館
  • 小野御所

天守構造

  • 無し

城郭構造

  • 平山城

遺構

  • 曲輪、土塁、堀切

比高

  • 35メートル

主な城主

廃城年

  • 1603年

立 地

南方面には低い丘陵地帯が続き北から東には鳴瀬川が流れている、さらにその北方には三本木の市街や、少し離れて大崎の中心地古川市街の所在する大崎平野がひろがる。桑折城は丘陵北端部に位置し成瀬川に沿って東西に長く展開する。

構 造

城は深い沢を挟んで相対する、南郭と北郭からなる、北郭は「鶴郭」と別称されるように、主郭と思われる三角形の郭を中心に三方に延びる尾根上に展開する。
西方尾根は副郭的な郭で、西端部と南に張り出した部分は幅10m以上の堀切で遮断されていた。西の掘切から西へは、堀切、段差などで区画された郭が170m続き平地にいたる。
北に向かう尾根は中段に段を設けた長い郭で先端は鳴瀬川に直接落ちていたという。主格南東側は高さ約20mの切岸で、中間に犬柱り状の通路が残る。

大崎合戦に重要な役割を果たした城

大崎合戦(1588年2月)伊達軍は大崎氏の居城・中新田城を攻撃した。しかし極寒の時期と地の利を得た大崎勢の反撃にあい、退却を余儀なくされた。千石城との中間地点にあって伊達勢の向軍を許した桑折城は、師山城と連携して鳴瀬川の両岸から防御を固めた退却を許さず、そのために伊達勢は付近の新沼城に籠城することを余儀なくされ伊達軍の敗戦である

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