上杉家が北条家の北上に備え築城した平山城

石戸城いしとじょう

石戸城址 埼玉県北本市石戸宿6丁目


1.城データ

築城年

  • 15世紀後半

築城者

別名

  • 天神山城

天守構造

  • なし

城郭構造

  • 平山城

遺構

  • 堀・土塁

比高

  • 6メートル

廃城年

  • 不 明

立地・構造

荒川の東岸の丘陵に所在する。戦国時代に扇田谷上杉の太田道灌によって築城されたとされその後扇谷上杉氏の家臣である藤田八右衛門が居城したと伝えられています。北上する北条氏の勢力に備えるため、岩付城からと松山城、河越城を結ぶ防衛戦の一部を担っていたと思われる
ほとんどの敷地が民地になっており、櫓台地と思われるものも民地の敷地内にある。
規模は東西約150m、南北約200mの平山城で城の東側には空堀(水堀?)と二の曲輪、南側に三、四、五と曲輪が繋がっている。
東側の二の曲輪の先には、北条氏が石戸城を攻めた折、一夜にして沼地に築いたとされる「一夜堤」が所在しているが、現在は自然遊歩道の一部になっている。

上杉家への従属

石戸城は太田氏の岩槻城の支城となっていましたが、1525年に北条氏綱に岩槻城を攻められると、太田資頼(太田道灌の孫、太田三楽斎資正の父)は石戸城に非難します。
その後、1561年長尾景虎(上杉謙信)が関東をへ侵攻し鎌倉鶴岡八幡にて関東管領に就任すると太田資正も上杉家へ従属し江戸城、松山城、葛西城を攻略し上杉軍へ従属しました。

石戸城の戦い

謙信の関東侵攻が失敗に終わると北条氏が反撃に転じ、上杉側に転じた豪族達を次々と降伏させていき、石戸城もその勢いにのまれます。
1563年、北条氏邦が石戸城を攻めます。当時石戸城には上杉謙信の家臣・毛利丹後守が城主に据えられていました、
着陣した氏邦は石戸城の東の沼地を挟んだ台地に本陣を張り激しい攻撃を幾度も繰り返し双方多数の犠牲者を出しますが落城には至りませんでした。
北条軍が攻めあぐんでいると上杉謙信が救援に向かっているとの報告が入り一刻も早く石戸城の攻略が迫られました、そこで氏邦は夜間沼地に土を盛り土橋を渡して一気に攻め込み石戸城を落城させたのです。
現在この合戦で北条軍により築かれた土橋を一夜にして築かれた事から「一夜堤」と呼んでいます。

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