上杉、北条の戦いのに位置した城

羽生城はにゅうじょう

羽生城

羽生城址 埼玉県羽生市東5-7


1.城データ

築城年

  • 1540年代

廃城年

  • 1614年

築城者

主な城主

  • 木戸氏、成田氏、大久保氏

主な改修者

天守構造

  • なし

城郭構造

  • 平城

遺構

  • 天神曲輪後

2 . 年 表

天分の中頃

1540年代 広田直繁・木戸忠朝によって築城される。

1554年

古賀公方が敗れ北条氏の支配下となる

1560年

上杉家に属す

1570年

木戸忠朝が皿尾城に移る(現埼玉県行田市)

1574年

北条氏に攻められ落城。成田氏の支配下になる(忍城の支城)

1590年

北条氏が滅亡。徳川家家臣・大久保忠隣が城主となる。

1614年

大久保忠隣が徳川家康の不服を買い、領地を没収。羽生城が廃城となる。

概 要

足利公方の家臣であった広田直繁・木戸忠朝によって築城された。
足利公方が北条家に敗れると北条家の支配化となった。
1560年、上杉謙信が関東に出兵すると広田直繁・木戸忠朝は上杉家に属し、羽生城は上杉謙信の関東侵攻の拠点となった。
しかし、その後、北条家の度重なる攻撃を受け1574年に北条家の手に落ち、成田氏の管轄になった。
北条家が滅亡し、徳川家が関東に入封すると羽生城は大久保氏に与えられた。1614年1月に廃城となった。

築城時期について

築城時期や築城者について、江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では1556年、木戸忠朝によるものと記している。
ただし、『風土記稿』の説を裏付ける資料は存在せず、詳細は定かではない一方、小田原安楽寺に安置されている三宝荒神像には ”広田直繁と木戸忠朝の連名で武州太田庄小松末社三宝荒神、天文五年丙申願主直繁、忠朝”
と記されていることから、1536年の時点で直繁が城主を務めていたと推測されている。ちなみに、直繁と忠朝の両者は兄弟である。

広田・木戸氏の時代

築城主の広田直繁と木戸忠朝の2人は兄弟であり、山内上杉氏の配下として活動し、父・木戸範実も含めた親子で入城したものされている。
『小田原旧記』によれば、1552年ごろに後北条氏の攻撃を受けて落城し、城を追われた直繁らは他の土地に移り住んだとも、小松神社(後の羽生市小松)付近に移り住み、一時的に後北条方に従属したとも考えられる。
1560年、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が常陸国の佐竹義昭の要請により関東出兵を実施すると、かつて上杉氏の配下にいた多くの家臣が景虎の下に参陣した。
直繁はこの機会に羽生城の中条出羽守を攻めて城を取り戻し、景虎から羽生城および羽生領を安堵された。
その後、武蔵国の武将の多くが後北条方に従属していく中で直繁・忠朝兄弟は一貫して上杉方に属し、抵抗を続けることになった。

1561年、謙信が成田氏の本拠である忍城の支城・皿尾城を奪取すると、忠朝を配置した。忍城主・成田長泰は前年の謙信の関東出兵の際には謙信の下に参陣したが、すぐに北条氏康に従属しており、長泰の動きを牽制する狙いがあった。この後、皿尾城をめぐり二度に渡り攻城戦が繰り広げられたが、忠朝は岩付城主・太田資正の加勢もあり、これを退けた。
1569年、武田信玄の関東出兵により謙信と北条氏康の間で同盟(越相同盟)が結ばれ、上杉方は協定により上野国、武蔵国の羽生領、岩槻領、深谷領などの領有が認められた。

1570年、直繁が謙信から上野国館林城を拝領したため、皿尾城主の忠朝が新たな城主となった。この後、直繁が死没すると忠朝は息子の木戸重朝、直繁の息子の菅原直則との協力関係を強め、後北条勢に対抗した。

1571年に氏康が死去し同盟関係が破綻すると、北関東における上杉・後北条間の抗争が再熱し、その結果、羽生領や深谷領は主戦場となった。

1573年、北条氏政は軍勢を率いて深谷城の上杉憲盛を攻撃し、憲盛を従属させると、成田氏長の要請もあり羽生と忍の中間に位置する小松に着陣し、羽生城を攻撃した。

1574年、北条氏政が羽生城へ進軍すると謙信は下総国関宿城および羽生城の救援のため再び関東に出兵し、武蔵国の忍領、鉢形領、松山領などを次々に焼き払ったが、謙信は羽生城主の忠朝に対して城を破却するように命じ、忠朝は1千余人の兵と共に上野国膳城へ逃れた羽生城は北条家の支配下となった。

成田氏の時代

北条家が羽生城を支配下に置くと、羽生城は忍城主・成田氏長の支配下に置かれ、成田長親、桜井隼人佐、善照寺向用斎、田中加賀、野沢信濃が城代を務めた。
1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、城代の向用斎は羽生城は放棄して忍城に籠城した。忍城は1か月におよぶ籠城戦の末に開城した。

大久保氏の時代

北条家の降伏後、徳川家康は諏訪頼忠に羽生領を含む2万7千石の領地を与えたが、家康が関東に入封すると、羽生領は大久保忠隣に与えられ忠隣は2万石の領主となった。
ただし忠隣は羽生城に入城することはなく、家臣の匂坂道可や徳森伝蔵が城代を務めた。

1594年、忠隣は父・大久保忠世の死去に伴い家督を相続し、羽生領を含む6万5千石の領主となったが、その後も城代家老らが羽生の領地経営にあたった。
その後、1614年、忠隣が改易となり近江国に蟄居するように命じられると、羽生城も同時に廃城となった。

構 造

羽生城は利根川沿岸の舌状台地を生かした平城であり、その周囲は沼地に囲まれていたと思われる。
また、天神曲輪の跡には古城天満宮が建立され、境内には城跡を示す石碑が建てられている。