奥州全土を巻き込んだ伊達家の内紛

【天文の乱】

 基 本 情 報

  • 交戦勢力 : 伊達稙宗 V S 伊達晴宗

  • 期 間 : 1542~1548年

  • 場 所 :奥州(東北地方)

  • きっかけ : 伊達稙宗と晴宗の対立

  • 結 果 : 稙宗が隠居、晴宗に家督を譲る

伊達稙宗 VS 伊達晴宗

伊達稙宗
伊達実元
小梁川宗朝・宗秀
懸田俊宗・義宗
大崎義宣
葛西晴清
畠山家
相馬家
田村家
石川家
国分家
黒川家
亘理家
上杉家

以下後に晴宗側へ
蘆名家
二階堂家
最上
石橋家

参加勢力

伊達晴宗
小梁川親宗・盛宗
留守景宗
中野宗時
白石宗綱・宗利
牧野宗興・景仲
石母田光頼
鬼庭元実・良直
片倉景親
大崎義直
葛西晴胤
遠藤家
岩城家
長尾晴景

年 表

不 明

稙宗が婿の相馬顕胤への伊達領割譲などの問題をめぐって伊達晴宗や家臣団と揉め、対立を深める。

1540年

稙宗が越後に時宗丸(実元)を越後守護・上杉定実の養子に送る案をだす。
これに反発した本庄房長らが挙兵して紛争へと発展。稙宗もこれに軍事介入する。

1541年

越後の実権を握っていた前守護代の長尾為景が死去。跡を継いだ晴景が稙宗に縁組への同意を伝えるが、越後国内でこれに反対する内乱が起きる。
稙宗はこれら反対派に対抗するため、越後に入国する時宗丸に家臣100名を選りすぐって随行させる。

1542年

随行に猛反対した晴宗が稙宗を西山城に幽閉する「天文の乱」の勃発

1542年

随行に猛反対した晴宗が稙宗を西山城に幽閉する「天文の乱」の勃発

稙宗が側近・小梁川宗朝によって救出され婿である懸田俊宗の居城・懸田城へ逃げ込む。

1543年

相馬家と晴宗の戦いが激化する

稙宗派の大崎義宣が留守を抑える

1544年

大崎義宣と大崎義直が衝突、大崎義直が勝利する。

最上家が長谷堂城を奪還して伊達氏から独立し勢力の拡大を図った

1545年

稙宗が相馬家の小高城に入城

1547年

田村家と蘆名家の間に不和が生じ、蘆名が晴宗方に味方する。

大崎義宣と大崎義直が衝突、大崎義直が勝利する。

1548年

大崎義宣と大崎義直が衝突、大崎義直が勝利する。

稙宗が隠居。晴宗に家督を譲るという条件で和睦が成立し、争乱は終結した。

き っ か け

越後への軍事介入や相馬家への領土分譲問題などで伊達稙宗と晴宗が対立する。

伊達家14代当主・伊達稙宗は多くの子女を近隣諸侯の下に送り込むことで勢力を拡張し、家督相続からの30年間で10郡を支配下に収め、陸奥守護職を獲得し、天文年間初頭には最上・相馬・蘆名・大崎・葛西ら南奥羽の諸大名を従属させるに大大名になっていた。
その中でも娘婿である、相馬顕胤を気に入っており伊達領の一部となっていた相馬旧領の宇多郡・行方郡の一部を還付しようとしていた、しかし、これに猛反発した長男・晴宗と次第に揉め対立を深めようになる。

1540年、さらなる勢力拡大を目論んだ稙宗が、三男・時宗丸(後の伊達実元)を越後守護・上杉定実の養子として送る案を示し、1541年稙宗は越後国内の反対派に対抗すべく時宗丸に家臣100名を選りすぐって越後に随行させることにした。
強兵を引き抜かれることで伊達氏が弱体化することを恐れた晴宗は、中野宗時・桑折景長・牧野宗興ら稙宗の集権化政策に反発する重臣達の支持を受け、1542年ついに父・稙宗を押し込めることを決意する。

は じ ま り

晴宗が稙宗を西山城に幽閉
しかし、家臣に救出された稙宗が宴席関係にある諸大名に救援を求め奥州全土を巻き込んだ大乱になる。

1542年6月、晴宗は稙宗の鷹狩りの帰途を襲い稙宗を西山城に幽閉することに成功する。
しかし、程なくして稙宗の側近・小梁川宗朝が稙宗を救出していまう。救出された稙宗は娘婿・懸田俊宗の居城・懸田城へ逃れ相馬顕胤をはじめとする縁戚関係にある諸大名に救援を求めたため、伊達氏の内紛は、一挙に奥羽諸大名を巻き込む大乱になった。

序 盤

最上家や大崎義宣の活躍で稙宗方が優勢になる。

序盤は諸大名の多くが加担した稙宗方優位のうちに展開し、陸奥では大崎義宣・黒川景氏が柴田郡まで兵を進めて留守景宗を抑え、出羽では鮎貝盛宗・上郡山為家・最上義守らが長井郡をほぼ制圧。稙宗側の優勢となる。

中 盤

蘆名家が晴宗側に寝返り戦況が一転、さらに離反者が相次ぎ晴宗側が有利になる

1547年、稙宗方の田村隆顕と蘆名盛氏の間に不和が生じて両者が争い始めると、蘆名氏は晴宗方に転じた。このため戦況が一転して晴宗方優位に傾くと、さらに稙宗方からの離反者が相次ぐ。

乱の終結

足利義輝の仲裁をうけて稙宗が隠居、晴宗に家督を譲り6年にも及んだ乱が終結する。

1548年9月、将軍・足利義輝の仲裁を承けて、稙宗が隠居して晴宗に家督を譲るという条件で和睦が成立し、争乱は終結した。
同時に越後においても、時宗丸入嗣推進派と反対派との間で戦闘が発生したが、入嗣推進派の上杉定実・中条藤資らは、反対派の守護代・長尾晴景や揚北衆などの越後国人衆に敗れ、ついに時宗丸入嗣案は完全に頓挫した。

「天文の乱」の影響

伊達氏の勢力が衰弱、最上家が独立・蘆名や相馬といった諸大名の勢力が拡張する。
伊達家家中では中野家が家中最大派閥となる。

6年間にも及んだこの乱により、稙宗が当主となって以来拡大の一途をたどってきた伊達氏の勢力は一気に衰弱した。
まず、伊達氏に服属していた奥羽諸大名のうち蘆名氏・相馬氏・最上氏などが乱に乗じて独立して勢力を拡張、特に蘆名氏は伊達氏と肩を並べるほどの有力大名へと成長した。また大崎・葛西両家においても、養子として送り込まれていた稙宗の子(義宣・晴清)が討たれ、乗っ取りが失敗に終わった。

一方、伊達家中においても、稙宗方についていた懸田俊宗らが和平案を不服として晴宗に反抗を続け、この鎮圧にさらに5年余りを要した。加えて晴宗方の重臣・中野宗時が乱中にあって、子の久仲を牧野氏の後継に送り込むなどして力を伸ばし、家中最大の勢力となって権勢を振るうようになった。晴宗は乱の終息後、家中の検断を行って(『晴宗公采地下賜録』)集権化を図るが、晴宗方についた重臣達には守護不入権などを認めざるを得なかった。こうした乱の後遺症の後始末がようやく終わったのは、晴宗の子・輝宗の代であった。