基 本 情 報
交戦戦力:那 須 家VS宇 都 宮 家
期 間 : 1549年9月17日
場 所 :下野国喜連川及び五月女坂(現・栃木県さくら市早乙女)
きっかけ : 那須家による宇都宮領侵攻
結 果 : 那須家の勝利(宇都宮尚綱の戦死)
那須家 |
VS |
宇都宮家 |
那須家 |
参加勢力 |
宇都宮家 |
那須高資 |
主な武将 |
|
300 |
兵力 |
2,000-2,500 |
領地を塩谷郡の一部まで拡張 |
結果 |
宇都宮尚綱の戦死 |
合戦場所
戦までの経緯
合戦時の宇都宮家は、結城氏家臣水谷正村による宇都宮攻めによって家臣の中村玄角や八木岡貞家を失い。天文の内訌(宇都宮忠綱と家臣団の対立)が原因で、壬生綱房の台頭することを許し、また一族の武茂氏・松野氏が佐竹氏に、塩谷氏が那須氏にそれぞれ離反しており、宇都宮氏の統制から離れつつあった。そのため当主・俊綱は勢力の回復を図っていた。
一方那須家は家中が安定していない宇都宮家への侵攻を企てていた。
そんな時に天文の内訌の際に尚綱に殺された芳賀高経の子・芳賀高照と手を結び、宇都宮攻めの大義名分を得る。
開 戦
那須家が300騎の軍勢を率いて宇都宮領に侵攻。
宇都宮攻めの大義名分を得た那須家当主・ 那須高資は300騎の軍勢を率いて宇都宮領に侵攻した。このため、尚綱は古河公方足利晴氏の下知を受け2500騎の軍勢を率いて喜連川に出陣してその地で戦った。(宇都宮家は佐竹家にも援軍を要請(1000騎))
序 盤
兵数で勝る宇都宮軍が優勢で戦が進む
那須家の秘策
五月女坂に伏せておいた伏兵を使い宇都宮軍を混乱させ多数の死者を出す
高資は五月女坂に伏せておいた伏兵を使い、宇都宮軍を混乱させ形勢は逆転した。状況を打破しようと宇都宮氏家臣の多功長朝や笠間氏家臣の満川忠親や横田氏の横田五兄弟らが奮闘し、那須軍の侵攻を食い止めるが満川忠親、横田五兄弟が討ち取られた。
宇都宮尚綱の討ち死に
伊王野資宗の家臣である鮎ヶ瀬実光の矢に射抜かれて宇都宮尚綱が討ち死にする
宇都宮尚綱は混乱を鎮め自軍を統制するために前線に出たが、そこを伊王野資宗の家臣である鮎ヶ瀬実光の矢に胸板を射抜かれて絶命し、合戦は高資が率いる那須軍の勝利で終わった。(鮎ヶ瀬実光が後ろから矢で射たとい説有り)
その後の経過
宇都宮の家宿老・壬生綱房が宇都宮城を占拠、那須家が塩原郡の一部を占拠する
尚綱が討死すると、宇都宮氏の宿老の壬生綱房が下克上を果たし宇都宮城を占拠してしまう。城内にいた幼い伊勢寿丸(のちの宇都宮広綱)は芳賀高定に連れられて真岡城に逃れた。
宇都宮城主となった綱房は芳賀高照を迎え入れ、傀儡として利用し、実権を掌握した。塩谷義孝ら宇都宮氏の重臣達も綱房に従わざるを得なかった。高資も綱房と結び、宇都宮氏は滅亡の危機に晒されることとなった。
逸 話
鮎ヶ瀬実光は尚綱を討ち取った恩賞10貫を使い五月女坂に、鎮魂のための石碑を建立した
尚綱を討った功により主君・伊王野資宗から豊後守を賜る。その後、永楽銭10貫を投じて五月女坂に、尚綱の鎮魂のための石碑を建立した[4]。その由来からこの地を十貫弥五郎坂という。