陸奥の田村郡を支配していた大名であり、坂上田村麻呂の末裔と言われている

田 村たむら


田村車前草

田村車前草

家系図

年 表

出 自

田村家の先祖は、2度の征夷大将軍を勤めた「坂上田村麻呂」と言われている。 坂上田村麻呂の子孫は代々田村郡を領していたが、いち国人に過ぎなかったが、第23第当主・田村義顕(室町時代~戦国時代)の時代に、田村郡内の領主を従えさせて、戦国大名になった。

概 要

田村氏は決して大きな戦国大名ではなかったが、伊達家への従属関係や外交戦略を上手く利用し、周囲に蘆名氏、佐竹氏、相馬市、伊達氏、岩城氏等の列強がいる中1590年まで戦国時代を生き抜いた。
小田原征伐に、参陣しなかったため、豊臣秀吉により改易させられ、田村氏の領地は伊達家に吸収され、田村家の多くは伊達家に仕官し、田村宗顕も最終的には仙台藩領白石に居を構え、子孫は伊達家家臣「片倉喜多」の名跡を継いだ。

伊達家への従属

1541年田村家24代当主・田村隆顕が隣国である安積郡(今の福島県郡山市付近)の伊東氏を攻めこれを攻略するが、伊東氏の当主「伊東祐重」が伊達家に救援を要請し、逆に伊達氏からの侵攻に合います。圧倒的な兵力差で勝ち目が無いと思った隆顕は、義理の弟である「相馬顕胤」(田村隆顕の正室と相馬顕胤の正室は伊達稙宗の娘である)に仲介を頼み、田村領の1部を伊達氏に献上するのと同時に伊達氏の従属下に入ります。

主な本拠地

武 将 (名前クリックで詳細)

田村義顕
( ? -1561)

陸奥の豪族田村氏23代当主。田村盛顕の子。岩城常隆の娘を娶った。1504年に三春城を築き居城とし、田村氏発展の基礎を築いた人物とされる。

田村隆顕
( ? -1574)

田村家代24代当主。外交戦略に長けた武将であり、伊達家だけでなく佐竹氏や蘆名氏など臨機応変に同盟相手を代え、小領主ながら優れた武将だった。

田村清顕
( ? -1586)

田村家代25代当主。伊達氏との関係を強化し周辺諸国からの圧力を跳ね返した戦国大名。正室は相馬顕胤の娘

田村宗顕
(1574-1648)

田村氏26代当主。田村氏顕(清顕の弟)の子。伯父・清顕に子がなかったため、伊達政宗の後援で田村家を継いだ。豊臣秀吉の奥州征伐で所領を没収され、その後は伊達家に仕えた。

田村顕頼
(不明-不明)

陸奥の豪族田村氏の一族・22代当主・田村盛顕の次男として誕生。謀略に優れ合戦においては軍師を務め、周辺諸氏からは「攻めの月斎」、「畑に地縛り、田に蛭藻、田村に月斎無けりゃ良い」と恐れられたという。

田村友顕(氏顕)
(不明-1548)

24代当主・隆顕の子。兄・清顕に従って出陣し、大内定綱と戦うが敗れ、戦死した。子・宗顕はのちに田村家の家督を継いだ。

大内定綱
(1545-1610)

陸奥の豪族。塩松城及び小浜城主。伊達政宗に帰属するが、後に敵対。その後、政宗の攻撃を受けて敗北し以後は伊達家に仕えた。戦上手として名高く、調略にも長け、武術においては十文字槍を得意とした。