下野国を中心に栄えた一族
小田原征伐の際に秀吉に降伏する

佐 野さ の

左三ツ巴

左三ツ巴

家系図

年 表

 1600年

関が原合戦では東軍に属し所領を安堵される。

 1592年

富田信種(秀吉家臣・富田信高の弟)を婿養子に入り家督を継ぐ

 1590年

小田原征伐で氏忠が降伏。佐野房綱が名代に命じられる

 1585年

佐野宗綱が戦死する
家督を氏忠(北条氏康六男)が継ぎ北条傘下となる。
佐竹派の重臣達が出奔する

 1584年

沼尻の合戦が勃発

 1582年

佐野房綱が滝川一益の側近となり織田氏と誼を通じる

 1581年

北条氏照に攻められるが、佐竹氏の援軍の助けもあってこれを撃退する

 1576年

織田信長との連絡を密にとる

 1574年

佐野豊綱が死没し宗綱が家督を継ぐ

 1561年

再び北条軍に攻められ今度は降伏する。
以降1570年まで上杉軍に何度も攻められる。(唐沢山城の戦い

 1560年

佐野秦綱が死没する
北条軍が唐沢山城を包囲するがこれを撃退する。
16代当主・佐野宗綱が生まれる

 1559年

家臣・赤見伊賀守が謀反を起こす

 1558年

佐野泰綱の子として佐野房綱が誕生する

 1559年

佐野豊綱が死没、家督を弟の昌綱が継ぐ

 1546年

佐野秀綱が死没する
河越合戦に参戦するが北条氏康にやぶれる

 1529年

15代当主・佐野昌綱が誕生する

 1527年

佐野秀綱が家督を相続し、古河公方に仕える

 1504年

14代当主・佐野豊綱が誕生する

 1488年

13代当主・佐野秦綱が誕生する

 1472年

佐野盛綱の子として12代当主・佐野秀綱が誕生する
佐野盛綱により唐沢山城が改築される

家 紋

左三つ巴

左三つ巴

出 自

下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍で源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁とされた「藤原秀郷」の系統。藤姓足利氏(源姓の足利氏とは別)庶流。足利有綱(俊綱の弟)の子で下野国安蘇郡佐野庄に土着した佐野基綱より始まる。

概 要

永享の乱および結城合戦での佐野氏の動向は不明。ただし持氏に近く反上杉の傾向だったと推測される。
享徳の乱では佐野氏は古河公方足利成氏方に属した。しかし、1461年幕府方へ転じている。

その後も古河公方側の有力国人として山内・扇谷両上杉家と戦い続けと佐野家「中興の祖」と呼ばれる佐野盛綱が出て、周辺へ勢力を拡大していったが北条氏の勢力が拡大すると佐野氏は後北条氏の影響下におかれるようになり、そのため後北条氏と敵対する関東管領上杉謙信の侵略にたびたびさらされるようになった。
佐野豊綱・佐野宗綱の代には一定の独立した勢力を保ち、1582年に織田家の滝川一益が上州入りを果たすと一族の天徳寺宝衍(佐野房綱)がその側近となり、佐野氏は織田家に通じた。滝川氏が敗れた神流川の戦いにも佐野氏は参加している。

滝川氏が敗れ上野国に後北条氏が進出すると、それに反発した佐野氏は後北条方との対立を深め、1585年に後北条方の長尾顕長と戦うが、この合戦で当主佐野宗綱が戦死してしまった。宗綱には娘しか無く、その婿たる後継の養子先について家中は佐竹氏派と後北条氏派に分裂した。結局、後北条氏から養子(北条氏忠)を迎えその傘下となったが、それに反発した天徳寺宝衍や山上道及ら佐野家中の佐竹氏派の重臣が出奔している。その後、1590年の豊臣秀吉による小田原北条氏追討の争い(小田原征伐)に際し、佐野(北条)氏忠は本家共々降伏した。佐野房綱が出奔後に豊臣秀吉へ仕えていたため、佐野家の家督は房綱およびその養子佐野信吉が継承して存続した。

本拠地・唐沢山城

佐野氏12代当主「佐野 秀綱」によって改築、拡張工事を行なった「唐沢山城」は関東でも有数の堅城に数えられる。現にこの城は上杉謙信の10度にわたる攻撃を全て撃退している。

古河公方からの独立と北条家

佐野氏は代々下野国の国人として古河公方に仕えていた、しかし13代当主・佐野泰綱の頃から古河公方が衰退しつつあったため下野国に独立的な勢力を築き上げた。第14代当主・佐野豊綱になると公方の命を受けて扇谷上杉氏、山内上杉氏と戦った。河越夜戦にも参加するが北条氏康に敗れるている。その後は勢いにのる北条家と手を結んでいる。

上杉と北条との間で揺れる

その後の佐野家は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した。当初、越後の上杉謙信と結んだ佐野昌綱は、1559年条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させた。佐野家の領地は謙信においては関東における勢力圏の東端であり、佐竹氏をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線でもあったため、特に重要視されたと考えられている。

唐沢山天正の乱

佐野昌綱の子・宗綱は弟で上杉氏の養子に入った虎松丸と不和になり、これにより佐野氏は上杉氏と決別するに至った。
上杉謙信は9度にわたり佐野家を攻撃したがこれを何度も撃退している。上杉氏と決別し孤立化した佐野氏は、1587年北条氏康の五男・氏忠を養子に迎え北条氏と和議を結んだ。

小田原征伐

1590年の豊臣秀吉による小田原北条氏追討の争い(小田原征伐)に際し、実家の北条氏側に付いた佐野(北条)氏忠は本家共々降伏した。天徳寺宝衍(佐野房綱)が出奔後に豊臣秀吉へ仕えていたため、佐野家の家督は房綱およびその養子佐野信吉が継承して存続した。

主な本拠地

  • 唐沢山城【栃 木】

武 将

佐野秀綱
(1472-1546)

居城の唐沢山城を大幅に修築・拡大した。佐野家の家訓を残している。

佐野泰綱
(1488-1560)

居城の唐沢山城を大幅に修築・拡大した。佐野家の家訓を残している。

佐野豊綱
(1504-1559)

佐野家14代当主。古河公方に仕え公方の命を受けて扇谷上杉氏、山内上杉氏と戦った

佐野昌綱
(1529-1574)

佐野家15代当主。10回に及ぶ上杉軍の侵攻を撃退する

参考資料(引用元)