下総を本拠地に関東の覇権を狙った古河公方の分家

小弓公方おゆみくぼう

足利二つ引(あしかがふたつひき)

足利二つ引き

家系図

年 表

1518年真里谷信清の支援のもと足利義朝が千葉氏の小弓城を占拠し「小弓公方」を名乗る
1524年北条家が東京湾西部沿岸を支配する
1533年里見家で内乱が起こる(天文の内訌)
小弓公方・義明と真里谷信清が対立
1534年真里谷家で家督争いが勃発し義明が介入する
義明が真里谷家からの傀儡から脱却する
1538年義明が北条・古河公方軍と戦う(第一次国府台合戦)
北条・古河公方軍に敗れ義明が死去し小弓公方が滅亡

概 要

古河公方・足利政氏の次男・足利義明が設立した古河公方の分家。
下総国小弓城を本拠地とし、義明が一代で勢力を拡大、全盛期には本家と関東の覇権を争うまでになった。
北条氏に敗れて滅亡するが、子孫は喜連川藩主として存続した。

小弓公方の誕生

関東制圧の野心があった真理谷信清に擁立され足利義明が小弓城で独立し「小弓公方」が誕生

1518年頃、関東では北条家の勢力拡大と古河公方では足利政氏足利高基の親子対立が起きていた。
そのような情勢のなか甲斐武田家の分家であり上総の戦国大名真里谷氏の真里谷信清は関東制圧のため、政氏の次男で高基の弟である足利義明を小弓城に迎え「小弓公方」として独立させた。
信清は小弓公方を傀儡化し足利一族という大儀名分のもとに関東一帯に勢力を拡大してようとした。

小弓公方の全盛期

関東諸勢力の力をかり勢力を拡大していく

真里谷氏の傀儡のような状況になった小弓公方だったが、安房の里見や千葉一族、下総の臼井氏、常陸の小田氏が義明の権威を利用しようと接近し軍事力を提供し真里谷氏の思惑を超える形となった。

北条氏との対立

東京湾一帯の支配をかけての対立

1524年、北条氏が江戸城を占領して東京湾西部沿岸を制圧した。
京湾東部沿岸を支配する小弓公方・真里谷氏・里見氏にとって東京湾の制海権を掌握しかねない北条氏に危機感を抱いた、小弓公方・真里谷氏は北条氏との対立を決意した。反対に義明排除を図る古河公方と東京湾の海上支配の確立を図る後北条氏の利害が一致することになり、古河公方と北条氏は同盟を結ぶことになる。

真里谷氏の傀儡からの脱却

1553年、小弓公方の支援者である里見家で里見義豊里見義堯の間で家督争いが勃発する。(稲村の変)
小弓公方・義明は真里谷信清に命じて小弓公方派であった義豊の支援を行わせたが、義豊は義堯に討たれてしまう。
そしてこれがきっかけに義明と信清が対立し、その対立に勝利した義明は信清を強制的に隠居させ、1534年に信清は死去する。
その後、真里谷氏内部で真里谷信隆と真里谷信応兄弟による家督争いが起こると、義明は里見義堯を自派に引き入れて信応を支持して信隆を追放するなど、巧みに真里谷氏の争いに介入する。こうして、義明は傀儡の立場から脱却し、正式な小弓公方として台頭した。

小弓公方の滅亡

第一次国府第合戦の勃発

急速に勢力を拡大していった小弓公方に対し危機感を抱いた北条氏は古河公方と同盟を結ぶことになった。
義明は北条氏と古河公方が結びつくのを食い止めるため、北条家への戦いを決意、1538年に真里谷信応や里見義堯ら房総の諸大名による連合軍を結成し国府台(千葉県松戸市)に進軍し北条・古河公方軍と決戦した。
小弓公方軍は義明の奮闘により一時は北条・古河公方軍を押したがこの戦に消極的な里見義堯や真里谷氏内部にも義明に対して不快感を抱いていた者もいたため、房総軍の士気が上がらす、房総軍は次第に北条軍の反撃を壊滅し義明自身も討ち死にした。

小弓公方の滅亡

義明の戦死後、小弓公方の居城である小弓城は北条氏の支援を受けた千葉氏が奪還したため義明の遺族は里見氏を頼って安房の里見家を頼り落ち延び、小弓公方は事実上滅亡した。

小弓公方の滅亡後

北条氏が南関東を掌握し、真里谷氏は里見家に攻められ滅亡する

小弓公方の滅亡により、北条氏が南関東を掌握。また、義明の死去により真里谷氏では再び、信応と信隆による家督争いが起こって真里谷家は急速に衰退し、やがて里見氏に攻められて、北条氏康の家臣として仕えることとなった。

義明の家臣たち

義明の一族のうち、義明の長女・青岳尼は初め鎌倉の太平寺に尼僧として預けられていたが、里見義堯の嫡男・義弘の願いによりその正室となった。これによって義明の旧臣もその多くが里見氏に仕える事となった。

喜連川氏として生き残る

義明の嫡男・義純は、第一次国府台合戦で父と共に戦死した。
一方、次男の頼純(頼淳)は第一次国府台合戦に出陣せずに生き残り、里見氏の元へ落ち延びた。その後、しばらくは諸国を流浪したが、頼純の娘が天下人である豊臣秀吉の側室となったことで、小田原征伐が始まると、頼純は里見氏の支援を受けて千葉氏を破って小弓城を取り戻し、数か月間ながら小弓公方を復活させた。
北条氏の滅亡後、頼純の長男国朝も秀吉の計らいにより足利氏姫(最後の古河公方である足利義氏の娘)と結婚を許されて、義明の系統は喜連川氏として存続することになった。
江戸時代になると足利氏の血筋ということで徳川家康は、石高4500石の喜連川頼氏に10万石の家格を与え、喜連川藩として存続させた。実際は1万石にも満たないが、特別に認められた異例の藩となった。

主な本拠地

  • 小弓城【千葉県】

武 将 (名前クリックで詳細)

足利義明
(???-1538年)

古河公方・足利政氏の次男。真里谷氏に擁立され上総国の小弓城を拠点に「小弓公方」を名乗った。
その後は北条氏と対立し「第一次国府台合戦」で破れ戦死し小弓公方は滅亡する。

足利義純
(?-1538)

小弓公方・足利義明の嫡男。父と共に第一次国府台合戦で戦死する。

足利頼純
(1532-1601)

小弓公方・足利義明の次男。父と兄が戦死し小弓公方が滅亡すると里見家を頼り落ち延びた。その後は娘が豊臣秀吉の側室となったため喜連川氏として復帰し喜連川藩主として存続する。

足利基頼
(???-1538)

足利政氏の三男。義明の弟。初めは長兄である古河公方・高基に従ったが、次兄・義明が小弓公方を創立するとこれに従った。その後、義明と共に第一次国府台合戦で戦死する。