強国に囲まれながら戦国時代を生き抜くが伊達家によって滅亡される

二階堂にかいどう


三つ盛亀甲に花菱

三つ盛亀甲に花菱

家系図

年 表

家 紋

三つ盛亀甲に花菱

三つ盛亀甲に花菱

概 要

陸奥の須賀川城を拠点とする大名。
鎌倉時代から二階堂為氏が須賀川に下向し、命令に従わなくなった須賀川代官二階堂治部大輔を討ち、須賀川城に入ったというのが祖。伊達家の内乱「天文の乱」では伊達稙宗となって戦った。
その後、蘆名氏に攻められ、二階堂盛義は息子を人質として送り講和したが。後に伊達政宗に攻められて、二階堂家は滅亡した。

出 自 

二階堂氏は各地に存在しており、「隠岐流二階堂氏」、「信濃流二階堂氏」と大きく分けて二つの二階堂氏が存在している。 その先祖を辿っていくと、藤原性で「藤原武智麻呂」を先祖としている。
陸奥の二階堂家は「須賀川二階堂家」と呼ばれており「信濃流二階堂氏」の括りに入れられる。
1444年頃、鎌倉から二階堂為氏が須賀川に下向し、須賀川代官・二階堂治部大輔を討ち須賀川城に入場した。この為氏が須賀川二階堂氏の初代とされている。

戦国時代初期

戦国時代初期の二階堂家は伊達家と連合組み隣国の白河結城氏また、田村氏らとも度々争っている。
1542年に勃発した伊達家の内乱「天文の乱」では、当時の当主・二階堂照行は伊達稙宗の娘婿だったため稙宗方となって戦っている。

蘆名家への傘下

1558~1570年二階堂氏は蘆名家や田村氏と所領をめぐって度々合戦を繰り返していたが、1566年会津地方を支配していた蘆名家により松山城、横田城を攻め落とされてします。
当時の当主・盛義は嫡男(のちの盛隆)を人質として差し出すことで蘆名家と和睦し、以後は蘆名家の傘下に入る事となる。
1574年には蘆名家当主・盛興が早死にしたため、二階堂家から人質として差し出されていた盛隆(蘆名家とは親戚にあたる)が蘆名家を継いだ。蘆名家という強力な後ろ盾を得た二階堂氏は、今泉城を奪還し勢力を拡大していった。

二階堂家の滅亡

佐竹家の南奥侵攻や伊達氏の南下による動きが活発になると1584年蘆名家当主・盛隆(二階堂家からの人質)が家臣によって暗殺されてしまう。
跡継ぎが居なかった二階堂家は盛隆の母でもある、盛義の未亡人(阿南の方)が取り仕切り城代を家老・須田盛秀が行っていた。
佐竹・蘆名家を中心に組まれた「反伊達連合軍」が結成されると、二階堂家もこれに加担したが、「人取橋の合戦」で敗戦、さらに「摺上原の戦い」で蘆名家が滅亡する。
二階堂家は蘆名家が滅亡したとしても、伊達家に従軍することなく対決する道を選んだ。須賀川城主の「阿南の方」は勇気もあり気丈な情勢であったと言われており、家臣が降伏する事を進めたが、断固としてこれを聞かなかったという。
さらに伊達政宗とは叔母の関係であったため、政宗は再三に渡り降伏を進めたという。
1589年ついに伊達政宗は須賀川城を総攻撃し二階堂家は滅亡した。

武 将 (名前クリックで詳細)

二階堂晴行
(?-1542)

二階堂家5代当主。将軍・足利義晴より偏諱を受けて晴行と名乗る。家督相続後は隣国の白河結城氏や田村氏と争う。

二階堂照行
(?-1564)

二階堂家6代当主。晴行の嫡男。伊達家や蘆名家という強敵に挟まれ、苦境に立たされる。三春城主・田村清顕の軍によって支城を奪われるなど、威勢は振るわなかった。

二階堂盛義
(1544-1581)

はじめ蘆名盛氏と争うが、子・盛隆を人質に出して降伏し蘆名家への傘下を決断以後、二階堂家の勢力を回復した。能吏的・文化的な人物だった。

二階堂(蘆名)盛隆
(1561-1584)

蘆名家18代当主。二階堂盛義の子。蘆名盛興の未亡人を娶った。上杉・北条家らと結んで佐竹家と争った。寵の衰えを逆恨みした側近に黒川城内で殺された。

浜尾行泰
(1542-1622)

元々は二階堂家家臣。二階堂氏が伊達政宗に攻撃されると息子と共に伊達家へ内応し伊達家家臣となる。その後、伊達政宗による上杉家の白石城攻めにて活躍。

川島宗泰
(1561-1584)

元は二階堂氏の家臣であったが、主家滅亡後、伊達家家臣となる。
文禄の役で活躍したほか、仙台城築城や江戸城外堀普請で奉行を務めた。

須田盛秀
(1530-1545)

二階堂家の家老を務めた。主君・盛隆が謀殺されると、城代として領内を統治。伊達政宗に攻められると常陸国に落ち延び、佐竹義宣に仕えた。

保土原行藤
(1538-1620)

二階堂家庶流。保土原館主。伊達政宗が主家を攻めた際に内応し、以後は伊達家に仕える。和歌や茶道に精通していたため、政宗に敬われて伊達家の一家に扱われた。