細川家の被官から下剋上を成し遂げ四国東部や畿内一円を勢力に収めた大大名

三好みよし

三階菱に五つ釘抜

三階菱に五つ釘抜

概 要

清和源氏(河内源氏)の流れをくむ一族で信濃小笠原家の庶流。
鎌倉時代のはじめに小笠原長清の子・長経が阿波三好郡に拠点を構え「三好」と称した 阿波守護細川氏の守護代を務めた大族で、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、四国東部と畿内一体を勢力に収めた戦国大名。その後、信長に敗れ政権は崩壊する。

家系図

年 表

 1458年

細川之長が誕生

 1465年

三好氏(三好式部少輔)の名が最初に史料に登場する

 1467年

応仁の乱が勃発
三好之長が東軍に属して戦う

 1477年

応仁の乱が終結

 1506年

之長、細川澄元に従軍し京に入京(畿内に進出するきっかけになる)

 1507年

細川澄之が細川京極家の家督を強奪(永正の錯乱)
澄之が細川高国に討たれる
大内義興が足利義稙を擁立し上洛
高国が大内側に寝返ったため高国と細川澄元(三好家の当主)が争う

 1509年

細川澄元、三好之長が京都に侵攻するが高国、義興に敗れる

 1517年

是永が同族の細川尚春を破り阿波を手中に収める

 1518年

大内義興が周防に帰国

 1520年

細川澄元・三好之長が京に侵攻し奪還する
細川高国は六角定頼が京都に侵攻しこれに敗れ之長が斬首される
之長の孫・三好元長が当主となる

 1521年

細川高国と第10代将軍・足利義稙が険悪になり足利義晴が12代将軍に就任

 1526年

細川高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が勃発
元長、細川澄元の子・晴元と足利義維を擁立し京都に侵攻し高国を破り京都を奪還する。(桂川原の戦い)

 1527年

細川高国が朝倉宗滴(越前)の支援を受け上洛を果たす(川勝寺口の戦い)

 1528年

細川晴元と三好元長が再び京を奪還

 1529年

元長が阿波に帰還

 1530年

足利義晴と細川高国は、浦上村宗や北畠晴具と連携して上洛を果たす

 1531年

細川晴元と三好元長は京都に侵攻し細川高国を敗死させ京都を奪還

 1532年

細川晴元が足利義晴と和河合したため晴元との関係が悪化
晴元との戦いにより元長が戦死(飯盛山城の戦い)
元長の嫡男・三好長慶が家督を継ぐ
細川晴元が実権を握り元の側近として三好政長・木沢長政らが台頭

 1539年

長慶が本拠を阿波国から摂津越水城に移す

 1542年

木沢長政を討ち勢力を拡大(太平寺の戦い)

 1549年

細川晴元に反旗を翻し、晴元の側近・三好元長を破り三好家が戦国大名として確立する(足利義晴と細川晴元は大津に逃亡)

 1550年

足利義晴が死去
長慶が足利義輝(義晴の子)と戦って近江に追い、畿内9ヶ国と播磨、伊予、土佐の一部を支配する大大名にまで成長

 1552年

細川氏綱を管領にするという条件で足利義輝と和睦

 1558年

幕府相伴衆として足利義輝を傀儡化し戦国時代初の天下人となる

 1564年

三好長慶が死去
長慶の甥で養子の三好義継(十河一存の子)が家督を継が若年だったため政権は義継の後見人である三好長逸・三好政康(宗渭)・岩成友通ら三好三人衆と松永久秀による連立政権が樹立された

 1565年

三好三人衆が足利義輝を殺害(永禄の変)
三好三人衆が大和に侵攻し松永久秀を攻撃

 1566年

三人衆は松永久秀との戦いにおいて、当主の三好義継を擁立

 1567年

三好義継が松永久秀のもとへ出奔(東大寺大仏殿の戦い)
三人衆方の篠原長房は、松永方の摂津越水城を奪い

 1568年

三好三人衆が擁立した足利義栄は第14代将軍に就任
足利義昭(義輝の弟)が織田信長と共に上洛を開始
好義継と松永久秀が信長と通じたため三好三人衆は敗走し篠原長房も越水城を放棄して阿波へ撤退し信長が上洛を果たす
足利義昭が第15代将軍に就任

 1569年

三好三人衆と三好笑岩は阿波から上陸し足利義昭を急襲するが失敗する

 1570年

三好三人衆・三好笑岩、篠原長房らが阿波から再び上陸し京に侵攻を開始し「野田城・福島城の戦い」で信長軍を破る
信長は朝廷工作を実施し、両者が和解する

 1571年

足利義昭と信長が決裂
三好軍が再び京都に侵攻を開始

 1572年

足利義昭と反信長で一致
三好家の勢力範囲は淀古城(山城国)まで復活

 1573年

重臣・篠原長房は主君・三好長治・細川真之により居城の上桜城を攻撃され自害
これにより三好家から離反者が続出
「第二次淀古城の戦い」で三好三人衆が信長に敗れる
足利義昭を匿ったために当主・三好義継が討たれる
これにより大名としの三好家が滅亡

出 自

清和源氏流信濃源氏の一族で小笠原家の庶流

三好家は清和源氏(河内源氏)流信濃源氏の一族で鎌倉時代の小笠原氏(信濃源氏)の庶流。
鎌倉時代のはじめ「承久の乱」で小笠原長清の子・長経が佐々木氏に代わって阿波守護となり。阿波三好郡(現・徳島県三好市池田町)を本拠にしたことから三好氏を称した。

室町時代

南北朝時代

南北朝時代では、南朝方に属して戦い、北朝方の細川氏と対立した。
しかし南朝が不利になり、細川氏が室町幕府内でも勢力を拡大し強大化するとそれに服した。
阿波では、細川氏の庶流の一つである阿波細川家が守護を務めたため三好氏は、この阿波細川家の被官として勢力を伸ばし細川家中における地位を確立していった。

応仁の乱、明応の政変をきっかけに畿内に進出

応仁の乱が勃発すると阿波細川家の細川成之が、細川家の宗家である細川勝元(東軍)を支援するため京に出陣した。
このとき、三好家当主・三好之長はこれに従軍し畿内進出のきっかけを作った。

その後、勝元の子・細川政元の養子に阿波細川家の澄元が迎えられると、之長は澄元をを支え各地を転戦して武功を挙げ、畿内にも大きな影響力を持った。

永正の錯乱によって京の権勢を掌握

1507年、細川政元の養子である細川澄之と澄之の執事・香西元長が、細川政元を殺害して細川京兆家の家督を強奪した(永正の錯乱)。
その後、澄之は同じ養子の細川澄元を三好之長ともども襲って近江へ追いやったが、同族の細川高国(政元の養子)や細川尚春(阿波細川家当主)、細川政賢(細川典厩家当主)らの反撃によって討たれた。之長らは近江から帰洛し、澄元と共に権勢を掌握した。

細川高国・大内義興との戦い

前将・軍足利義植を擁立し大内義興が上洛する

主君・澄元は細川高国と共に澄之を破り京都を奪還したが、今度は、周防の大内義興が前将軍・足利義植を擁立し上洛を開始した。
細川澄元は大内義興との和睦を画策したが、細川高国が大内方に寝返ったため決裂し将軍・足利義澄、細川澄元、三好之長は近江に逃れ、大内義興は上洛を果たし、足利義植は将軍職に復帰した。

如意ヶ嶽の戦い

1509年、細川澄元、三好之長は、琵琶湖を渡り京都に3千兵ほどの兵力で侵攻したが、逆に高国と義興軍2~3万軍の反撃を受けて敗北し阿波に逃走した。

船岡山合戦

1511年、細川澄元は第11代将軍・足利義澄赤松義村(播磨)、細川尚春(淡路)らと連携しと共に堺に上陸し、深井城の合戦に勝利し京都を奪還する。
足利義澄が死去し、三好之長らは再起した細川高国と大内義興との船岡山合戦に敗れ、阿波に落ち延びた。その後大内義興は、管領代に任命された。
通説では、三好之長は澄元に同行して参陣しといわれているが、最近の考えでは澄元の祖父で阿波細川家の実権を握っていた細川成之出陣を反対して、成之の意向に従った之長は出陣を拒否したと考えられている。

淡路攻略

船岡山合戦のあと、淡路守護家・細川尚春が阿波一国を与えることを条件に高国に寝返った。これに危機感を抱いた阿波細川家や三好之長は不仲になっていた細川澄元と和解し、1517年に之長は淡路に攻め込んで細川尚春を追放し、同国を手に入れることに成功した。

大内義興の帰還

1518年、京都では軍事力の主力であった大内義興が、出雲の尼子経久の勢力が拡大し周防を脅かし始めたため周防へ帰国してしまう。
大内義興の在京期間は10年及び、軍事力の中枢を失った細川高国の基盤は揺らいだ。

三好之長の死去

1520年、細川澄元・三好之長が、細川高国の領国である摂津に侵攻し下田中城主・池田信正の協力を得て、瓦林正頼が籠もる越水城を攻略した。
すると第10代将軍・足利義稙も澄元に通じため、細川高国は単独で近江坂本に逃れ、三好之長は京都を奪還した。

しかし、その数か月後、細川高国は六角定頼(近江)と内藤貞政(丹波)の協力を得て、上洛戦を開始、これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は等持院の戦いで敗北し捕らえられて斬首され、摂津伊丹城に居た澄元も阿波に敗走し、細川澄元も阿波にて病死した。六角定頼は、上洛を果たし、後に管領代に任命された。

三好元長の時代

澄元、之長の子孫が桂川原の戦いで高国を破り京都を奪還する

1526年、細川高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が勃発した。
三好之長の孫・三好元長は細川澄元の子・晴元と、第12代将軍・足利義晴と同じく第11代将軍足利義澄の子で、船岡山合戦の後、阿波細川家で庇護されていた足利義維(堺公方)を擁立し、1527年に桂川原の戦いで高国を破り京都を奪還する。
足利義晴は細川高国を伴い近江に逃れた。

元長の死

1532年、仇敵・細川高国を討った細川晴元は第12代将軍・足利義晴と和解を進めたため、足利義維を庇護してきた三好元長と意見の対立から仲違いが始まる。
更に畠山義堯(畠山総州家)の家臣である木沢長政が義堯を飛び越え細川晴元に接近し、元長の従叔父の三好政長も細川晴元に同調し、木沢長政が裏切ったため、畠山義堯と元長らは2度に亘って木沢長政の居城の飯盛山城(河内)を攻撃した。
しかし、晴元や三好政長らの策謀により蜂起した一向一揆が義堯・元長軍の背後を襲い、畠山義堯を自刃させ、三好氏の根拠地である法華宗の和泉顕本寺も襲い、元長も自害に追いまれてしまう(飯盛山城の戦い)。

三好長慶の時代

三好長慶が家督を相続

元長の死により三好宗家は元長の嫡男・三好長慶が継ぐことになったが、長慶は10歳という幼少のためか三好氏は一時的に後退した。
また、京では三好家が擁立していた足利義維も享禄・天文の乱の混乱に乗じた晴元らにより阿波に移され、義晴と和睦した晴元が政権を握り、晴元の側近として三好政長・木沢長政らが台頭した。

三好家の勢力拡大

智勇兼備の武将に成長した長慶は河内守護代で畿内に強い勢力を誇った遊佐長教(畠山尾州家家臣)の娘を継室に迎えると、三好宗家の本拠地を阿波国から摂津越水城に移す決断をした。
摂津において力を蓄えた長慶は、四国の留守を守る弟の三好実休(阿波)や安宅冬康(淡路)、十河一存(讃岐)らと協力し、1542年、木沢長政ら父の仇の敵勢力を次々と破り、細川家中に父以上の勢力を築き上げた(太平寺の戦い)。

細川晴元に反旗を翻し下剋上を成功させる

1549年、長慶は岳父・遊佐長教の援軍を得た上で細川高国の養子氏綱を擁立、細川晴元に反旗を翻し、「江口の戦い」の戦いで晴元の勢力を軍事面で支えていた三好政長を討ち破った。
長慶の追討を恐れた晴元は将軍・足利義晴と大津に逃亡し細川政権が崩壊し、長慶は下剋上を成し遂げ戦国大名として名乗りを上げた。

足利義輝との戦いに勝利し事実上の天下人となる

1550年、足利義晴が死去すると義晴の子・足利義輝と対立する。
長慶は足利義輝と戦って近江に追い、畿内(摂津、河内、大和、丹波、山城、和泉)や四国(阿波、讃岐、淡路)と合わせて9ヶ国と播磨、伊予、土佐の一部を支配する大大名にまで成長した。

1552年には、三好長慶は細川氏綱を管領にするという条件で足利義輝と和睦するが、1553年に義輝は晴元と協力して長慶に戦いを挑むがも敗退し再び近江朽木へ逃れた。
1558年に再び、長慶は足利義輝と和睦し、幕府相伴衆として第13代将軍・足利義輝を推戴し、足利義輝-細川氏綱-三好長慶という体制に移行するが、実権は長慶が握っており、長慶は室町将軍の役割である畿内地域の支配と地方大名の統制を間接的に担った、戦国時代初の天下人となった。

長慶の死

長慶は応仁の乱以降の長い戦乱で荒廃した都を復興し、堺の町を一大貿易港として整備するなど精力的に治めた。しかし、旧勢力の抵抗は止むことなく、河内・紀伊の守護で三管領の一つである畠山氏の畠山高政、南近江の半国守護で細川晴元の従兄弟の六角義賢らは反三好の兵を起こすなどした。
それらとの戦いのなか、久米田の戦い(現在の岸和田市)で弟の実休を失い、嫡男・義興や自身の弟達(十河一存、安宅冬康)にも先立たれ、自身も1564年に43歳で死去してしまった。

三好義継の時代

三好三人衆と松永久秀による連立政権が樹立

長慶の死去うると、三好氏の家督は長慶の甥で養子の三好義継(十河一存の子)が継いだ。
しかし義継は若年のため、三好政権は義継の後見人である三好長逸・三好政康(宗渭)・岩成友通ら三好三人衆と松永久秀による連立政権が樹立された。

三好三人衆による足利義輝殺害(永禄の変)

長慶の傀儡として君臨していた将軍・足利義輝は長慶の死をチャンスとし、上杉謙信・武田信玄・朝倉義景など諸大名に上洛を呼びかけ、幕府再建を目指して積極的な活動を行なうようになった。
このような義輝の行動に危機感を持った三好三人衆らは、1565年にクーデターを起こして、義輝を二条御所で殺害した(永禄の変)。

三好家の内紛

1565年、松永氏の勢力を危険視した三好三人衆は、筒井順慶ら大和の国人衆らと手を結んで大和に侵攻し、久秀を討とうとした。
これにより、三人衆と久秀の対立が決定的となる。
三人衆は松永久秀との戦いにおいて、当主の三好義継を擁立し、三好長治、やその重臣・篠原長房三好笑岩、阿波細川家の細川真之、将軍候補方・足利義栄と圧倒的な戦力差であった。
1567年、当主・義継が突如出奔、松永久秀に保護を求めたたため東大寺大仏殿の戦いでは松永・三好連合軍が勝利した。
しかし、三好三人衆派の優勢に変わりはなく、三人衆方の篠原長房は、松永方の摂津越水城を奪い、1568年には三人衆が擁立した足利義栄が第14代将軍に就任した

織田信長の登場と三好家の滅亡

足利義昭を擁立し、織田信長が上洛

1568年m三好政権内部で内紛が続くなか、永禄の変で幕臣の援助を受けて逃亡していた足利義昭は、尾張・美濃を領して勢いに乗る織田信長の援助を受け、上洛を開始する。
内紛によって信長を食い止めることの出来ない三好家は侵攻を食い止めるため、六角義賢に管領職を与えることで味方に引き込み防衛しようとしたが、義賢は信長の侵攻を受けてあえなく敗れさった(観音寺城の戦い)。
また、三好当主・義継と松永久秀は信長と通じており、このため三好三人衆は敗走し、篠原長房も越水城を放棄して阿波へ撤退した。織田信長は上洛を果たし、足利義昭が第15代将軍に就任した。

京への進軍

信長に敗れた三好三人衆はその後、度々京へ侵攻するが敗退する、「野田・福島城の戦い」ではあと一歩の所まで追い詰めるが信長の朝廷工作によって撤退した。
しかし、1571年、将軍・義昭と信長が不和になると三好家は義昭と反織田で意見が一致し1573年頃には淀古城(山城国)まで勢力を巻き返した。

三好家の崩壊

家中の離反によって畿内での勢力が孤立する

1573年、三好家の重臣・篠原長房が反逆者の疑いをかけられ主君の三好長治・細川真之により居城の上桜城を攻撃され、自害する(上桜城の戦い)。
この事件により三好家は統率力及び阿波での信頼を喪失、支配下にあった讃岐の国人・香川氏、香西氏を始め、本国である阿波の国人までもが三好家から離反し、本国、阿波の援軍を得られなくなった三好三人衆・三好笑岩・三好義継・松永久秀は畿内で孤立してしまう。

三好家の滅亡

畿内にて孤立した三好三人衆はなおも信長に抵抗したが、1573年、「第二次淀古城の戦い」それぞれ敗れ去り、更には足利義昭を匿ったために当主・三好義継までもが信長に討たれ(若江城の戦い)。
1574年に松永久秀が降伏、その数か月には本願寺の支援を受けていた新堀城(摂津)の十河一行、香西長信が敗死、高屋城(河内)の三好笑岩も降伏(高屋城の戦い)し、三好氏は三好長慶の築き上げた畿内における勢力を完全に失った。

畿内より撤退した阿波三好家当主の三好長治は1577年に長宗我部元親の助力を得た細川真之と阿波荒田野で戦い敗死、長治の死によって阿波に残った阿波三好家も滅亡。
最期の三好一族となった讃岐の十河存保は長宗我部元親、信長の勢力に挟まれ、織田信長に降り、織田政権傘下の大名となる。

主な本拠地

  • 芝生城【徳島】
  • 越水城【兵庫】
  • 芥川山城【大阪】
  • 飯盛山城【大阪】
  • 阿波勝瑞城【徳島】
  • 高屋城【大阪】
  • 洲本城【兵庫】

武 将 (名前クリックで詳細)

三好之長
(1458-1520)

三好家当主。応仁の乱と明応の政変で活躍し三好家の畿内進出のきっかけを作りだした智勇兼備の名将。