四職のひとつに数えられた播磨きっての名族
赤松家
二つ引両に右三つ巴
年 表
平安時代 | 新田(山名)義範が上野国多胡郡山名を移住し、「山名」を名乗る |
1331年 | 元弘の乱で足利尊氏に従う |
1337年 | 伯耆国の守護に任じら |
1341年 | 出雲国守護・塩冶高貞討伐で功績を挙げ後・出雲・隠岐守護となる |
1348年 | 若狭守護となる |
1381年 | 一族で丹後・伯耆・紀伊・因幡・丹波・山城・和泉・美作・但馬・備後の守護となり「六分一殿」と呼ばれる |
1391年 | 明徳の乱で幕府に対して挙兵するが敗れ、山城・丹波・丹後・美作・和泉・紀伊・壱岐・出雲の所領を没収され勢力が減少する |
1399年 | 応永の乱で戦功をあげ備後・安芸・石見の守護に命じられる(守護職は但馬・伯耆・因幡・備後・安芸・石見の六か国) |
1441年 | 足利義教が赤松満祐によって暗殺される |
1467年 | 細川勝元と対立し、「応仁の乱」が勃発 |
1468年 | 赤松政則に播磨・備前・美作を奪われる |
1473年 | 山名宗全が死去し、宗全の孫・山名政豊が家督を継承する |
1479年 | 第一時毛利次郎の乱が勃発 |
1487年 | 第二時毛利次郎の乱が勃発 |
1512年 | 致豊が家督を継ぐが守護代・垣屋家ら家臣に離反され(大内・尼子・浦上らの圧迫を受け次第に山陰道山陽道の領国は奪われていった) |
1580年 | 羽柴秀吉に降伏し大名としての山名氏は滅亡した |
家 紋
五七桐七葉根笹
出 自
村上源氏の流れを汲み播磨(現・兵庫県赤穂郡上郡町赤松)を領し「赤松」名乗った
村上源氏の流れを汲む一族。赤松氏の始まりは、村上天皇の皇子・具平親王の子・師房が源姓を賜り、その末裔である源師季が始まりとされている。
師季の
師季の子・季房の子である季房(季方とも)が播磨国佐用荘に配流され、その後裔の則景が建久年間に北条義時の婿になった縁で播磨国赤松村白旗城(現、兵庫県赤穂軍上郡町赤松)の地頭職に補任されたことから、嗣子家範が赤松氏を称したと言われている。
※諸説有り
室町時代
元弘の乱でいち早く挙兵し播磨守護稙に補任される
元弘の乱が発生すると、赤松家当主・円心は打倒鎌倉幕府を掲げる後醍醐天皇の皇子・護良親王(大塔宮)の命を受けていち早く挙兵し、建武政権の樹立に多大な功績を挙げたことから、建武の新政において播磨国守護職に補任された。
しかし、有力な後ろ盾だった護良親王が皇位簒奪を企てたとして失脚するのに前後する形で播磨国を没収されたことから、新政から離反した足利尊氏に味方し、尊氏が一時形勢不利に陥り、九州へ西下している間は新田義貞の勢力を赤穂郡の白旗城で釘付けにし、尊氏の東上の際には室町に迎え、1336年の「湊川の戦い」では楠木正成を破り尊氏を勝利に導く遠因を作った。
一族で4ヵ国の守護となり四職の一つとして数えられる
円心の三男・則祐は室町幕府2代将軍・足利義詮や管領の細川頼之を補佐し、京都が南朝方に一時占拠された際には、幼い足利義満を自身の居城に避難させて保護するなど、室町幕府の基礎固めにも貢献する。その功により坂本城を守護所として播磨1国の守護に任じられると共に、室町幕府では京極氏・一色氏・山名氏と並ぶ四職家の1つとなって幕政に参画した。
円心の長男・範資には摂津国、次男の貞範には美作国、三男の則祐には備前国の守護職が与えられ、合わせて4ヶ国の守護となる。但し、摂津守護は範資の子・光範の代に召し上げられ、以後、範資の系統は庶流となり「七条赤松家」を称した。七条家は後裔の赤松義村が赤松政則の後継となり、宗家への復帰を果たすこととなる。
嘉吉の乱
将軍・足利義教の独裁政治に不満を持った満佑が義教を殺害する
1429年に「播磨の土一揆」が発生すると次第に赤松家の支配力に衰えがみえ始めた。
更に6代将軍・足利義教は専制政治を行い有力大名家への介入を策し、斯波・山名・畠山・京極などの家々でも義教の意のままに家督が左右され、一色義貫、土岐持頼ら守護も討たれ。
赤松家でも赤松満政や赤松貞村といった庶流を優遇し、本家である赤松満祐・教康父子を冷遇し始め、義教が満佑を討つという噂も広がった。
そのため満佑は先手をうつため、結城合戦平定の祝賀と称して義教を自邸に招き殺害した(嘉吉の乱)
山名宗全を中心とした満佑討伐軍が発足し赤松家を討伐する
将軍・義教暗殺後、播磨に帰国した満佑だが山名宗全を中心とした幕府軍の追討を受け、満祐は自害し、赤松家の影響力は衰退していった。
※赤松家の旧領三国の守護職は山名氏が承継した。
赤松家の復活
1457年、赤松氏の遺臣が「禁闕の変」で後南朝に奪われた三種の神器の神璽を取り返して南朝皇胤を討った(長禄の変)。
遺臣達は満佑の弟義雅の孫・赤松政則を取り立てた幕府に赤松氏再興を願、幕府の許しを得て加賀半国守護となって再興を果たした。本拠を置塩城に移した。
戦国時代
応仁の乱では東軍に属し播磨・備前・美作の守護に返り咲く
応仁の乱が勃発すると、赤松家は細川勝元の東軍に属し、その功績によって播磨・備前・美作の3ヵ国の守護に返り先、1488年には山名氏の勢力を駆逐し、本拠を
赤松政則が急死すると浦上家との間で確執が生まれる
戦国時代に入ると政則が従三位に昇進するなど全盛期を迎えた。その後、1496年に政則が急死すると七条家(赤松家分家)からの婿養子である赤松義村が跡を継いだ。
しかし、義村は幼少だったため守護代の浦上氏、別所氏らの実力が高まり、赤松家当主の大名権力に陰りが見え始めた。
守護代・浦上家との争いに破れ傀儡状態となる
成長した義村は赤松家の戦国大名としての基盤を築きあげようとした。
しかし、備前国守護代の浦上村宗との間に確執が生まれ、1518年から義村と村宗の間に内紛が起こった。
この内紛は村宗が勝利し、義村は村宗の圧力を受けて嫡子の晴政に家督を譲らされ、その後、義村はに村宗によって暗殺された。
家督を継いだ晴政は村宗の傀儡として利用され赤松家の権力は没落していった。
赤松家と浦上家との武力抗争が10年弱綴ぐ
晴政が家督を継いで10年弱、播磨国では浦上派と反浦上派が武力闘争を起こすなど大混乱となった。
しかし、晴政は「大物崩れ」(赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を壊滅させた合戦)によって村宗を討つと、これにより晴政の大名権力は一時的に高まった。
だが、赤松領内では浦上氏の残党勢力による抵抗もあり、赤松家の直接支配が及ぶ範囲は西播磨方面に限定され、赤松家当主が分国の守護代や郡代に与える命令系統はなかった。
尼子家からの侵攻が始まる
1537年からは出雲国の戦国大名・尼子家の侵攻が始まり、晴政は領国を追われて淡路国に逃亡した。
このため家臣の大半も尼子氏に寝返るが、東播磨守護代の別所村治のみは晴政と通じて抵抗した。
その後、晴政は幕府の支援を得て領国奪回に乗り出し、苦戦の末に播磨から尼子勢力を追放した
三好家の侵攻し赤松家が没落していく
1554年、摂津国の戦国大名・三好長慶が東播磨に侵攻した、別所氏は三好軍の侵攻に抵抗するが東播磨一帯はほぼ三好軍に制圧されたほか、備前・美作の守護職が尼子晴久に与えられるなど、赤松家は2か国の守護職を失った。
さらに1558年には晴政が嫡子の義祐と対立するなど家中で内紛が起こり、この対立に敗れた晴政は家督を義祐に奪われ以後、晴政は義祐と対立しながらも政秀と共同して西播磨を辛うじて支配した。
赤松家の没落と織田信長
有力家臣達が次々独立し赤松家が衰退していく
晴政の死後、赤松家の当主となった義祐は赤松家の勢力を取り戻そうとするが、赤松家の勢力は播磨国内ですら及ばなくなっており、別所氏や宇野氏は独自の権力を確立して戦国大名として自立するなど、赤松家に従う有力重臣は小寺氏くらいだった。
赤松家の勢力が及ぶ範囲は西播磨だけで、それさえも重臣の助力なくしては保てないほど衰退していた。
織田信長が登場、赤松家は織田家に従軍する
織田信長が上洛すると、織田氏の勢力は東播磨に及んだが、義祐は信長に従わず織田軍の西播磨平定を妨害した。
このため柴田勝家ら織田軍主力が播磨平定のために進出し、播磨国は結果的に信長の強い影響下に置かれる事になった。信長の支配下に置かれた播磨国では赤松家の大名権力は完全に有名無実と化し、実質的には赤松一族の別所氏や宇野氏がそれぞれ信長に従う事になった。
その後、義佑の嫡男・則房は羽柴秀吉に従い播磨国内を転戦し、播磨置塩に1万石を与えられて存続を許された。
赤松家滅亡
関ケ原合戦で西軍に属し所領が無くなり、大阪夏の陣の際に破れ大名としての赤松家は滅亡した
1600年、関ヶ原の戦いで赤松則英は西軍に属し佐和山城に籠城したが落城し、京都に逃れたが自害した。
また、赤松一族で但馬竹田城城主・斎村政広(赤松広秀)は、西軍から東軍に寝返ったものの、西軍に与した宮部長房の居城・鳥取城を攻めるときに民家を焼き払ったことを理由として、徳川家康から自害を命じられた。
政広の弟の赤松祐高は兄の死後、全国を流浪した。のちに大坂の陣に際して、浪人衆として大坂城に入城。豊臣秀頼に仕えたが、大坂の陣にて豊臣氏は滅びた。祐高一党は播磨に逃れて、同じく大坂方であった播磨島津氏の島津義弘親子らと共に大覚寺に立て籠もるも、池田利隆の軍に攻められて切腹した。嫡男は半田山で帰農し、郷長となった。これにより大名としての赤松氏は滅亡した。
主な本拠地
- 二条御所【京都】
- 槙島城【京都】
武 将 (名前クリックで詳細)
赤松満佑 |
赤松家当主。父・義則の死後、家督を継ぎ播磨・備前・美作守護となる。将軍・足利義教と対立し殺害する。その後、細川・山名の討伐軍に破れ自害する |