伊達氏の重臣
父・元宗と共に相馬氏と争う
亘理 重宗
重宗が城主を務めた涌谷城
ポイント
- 伊達氏の重臣・亘理氏18代目当主
- 伊具郡を巡って相馬氏と争う
誕生・死没
- 誕生:1552年
- 死没:1620年
- 享年:69歳
官職・役職
- 従五位下美濃守
親 族
- 父 : 亘理元宗
- 母 : 国分盛氏
- 兄弟: 黒川義康の正室
- 子 : 定宗
- 子 : 鮎貝宗益の正室
- 子 : 泉田重時
- 子 : 大立目定宗の正室
- 子 : 栗野重次
- 子 : 坂本定俊の正室
- 子 : 亘理宗根(伊逹政宗の庶子)
略 歴
1552年… | 亘理元宗の嫡男として誕生する | 1566年… | 伊逹晴宗を烏帽子親として元服する |
1578年… | 父・元宗と共に相馬戦の指揮を一任される |
1583年… | 丸森城攻めで砦を築く等で活躍をする |
1586年… | 人取橋の戦いに従軍する |
1589年… | 相馬領・駒ヶ嶺城を攻略する |
1590年… | 「童生淵」で相馬隆胤を討ち取る |
1591年… | 葛西大崎一揆に従軍する 遠田郡へ領地替えを行う。 |
1600年… | 関ヶ原合戦では人質として江戸に匿われる |
1604年… | 隠居して家督を定宗に譲る |
1606年… | 政宗の子・宗根に末娘を嫁がせ婿養子とする |
1620年… | 死去する |
生い立ち
1552年、亘理氏17代当主・亘理元宗の嫡男として誕生する、1566年には伯父である伊逹晴宗を烏帽子親とし
元服し、その後1570~1573年の間に相馬盛胤の娘を正室に迎えている。
家督を相続した時期については正確な時期は不明だが、遅くとも重宗が涌谷に移る以前(1591年以前)であったということは判明している。
相馬氏との戦い
1578年になると、伊達家の当主・伊達輝宗は越後の「御館の乱」に介入していたため、重宗の父・元宗が対相馬戦の指揮を任され、相馬氏と伊具郡をめぐって交戦していた。重宗の正室は相馬氏の娘だったため複雑な気持ちで戦っていたのではないでしょうか
1583年の「丸森城攻め」では、明護山に砦を築いて相馬勢を分裂させた。また1589年には駒ヶ嶺城を攻略した。このとき占領した宇多郡北部(現:新地町)は幕末に至るまで仙台藩の所領となった。また同年
には反攻を仕掛けてきた相馬勢を亘理郡吉田浜で破り、1590年の「童生淵の戦い」では相馬隆胤(義理の弟)を討ち取った。
小田原征伐後
小田原征伐後の、葛西大崎一揆に従軍した重宗は父・元宗とともに先陣の指揮をとり、戦中に左股を負傷したという資料がある。
一揆鎮圧後は伊逹政宗が岩出山城への転封と同時に政宗の命によって遠田郡へ領地替えを行った。(知行8850石)
1600年の関ヶ原合戦では人質として江戸に匿われたため、嫡男・定宗が代わりに出陣し、上杉景勝領の白石城を攻略して徳川家康から功を称された。
晩 年
1604年、隠居し家督を定宗に譲ると、政宗から隠居領として栗原高清水城1000石を与えられる。
その後1606年に政宗の庶子・宗根に末娘を嫁がせて婿養子とし、隠居領と併せて亘理氏の名を嫁がせることになった(のちの佐沼亘理氏)
このため既に家督を相続して脇谷城主となっていた嫡男・定宗には代わりに伊達姓を名乗ることだ許された(脇谷伊達氏)
1620年1月25日に死去する