ポイント
- 宇都宮家21代当主
- 北条家と徹底抗戦する
- 家臣の下克上にあう
- 生まれつき病弱
誕生・死没
- 誕生:1545年
- 死没:1576年
- 享年:32歳
官職・役職
- 官位: 従四位下 下野守
親 族
- 父 : 宇都宮尚綱
- 母 : 結城政朝娘
- 正室: 南呂院(佐竹義昭娘)
- 子 : 宇都宮国綱
- 子 : 結城朝勝
- 子 : 芳賀高武
略 歴
1545年… | 20代当主・尚綱の嫡男として誕生 | 1549年… | 尚綱が 広綱は真岡城に落ち延びる |
1555年… | 家臣・芳賀高定が芳賀高照を暗殺 壬生綱房が急死 |
1557年… | 北条氏を味方につけ、宇都宮城を奪取する |
1558年… | 上杉軍が侵攻してくるが多功長朝によって撃退する |
1558以降 | 佐竹義昭の娘・南呂院を妻に迎える 上杉と同盟を結び北条家と対抗する |
1564年… | 上杉謙信、佐竹義重と共に北条方の小田氏治を小田城の戦いで敗走させる |
1572年… | 上杉との外交担当・岡本宗慶が暗殺される 宇都宮城が皆川氏によって占拠される |
1573年… | 佐竹義重とともに皆川氏討伐を行う |
1576年… | 死 去 |
幼名の由来
天文14年(1545年)に宇都宮家20当主・尚綱の嫡男として誕生する。
当時、下野国は伊勢信仰が流行しており、その影響を強く受けていたためか、幼名は伊勢寿丸である。
宇都宮城からの追放
1549年、父・尚綱が喜連川五月女坂の戦いで敗死すると、宿老・壬生綱房が、当時5歳だった広綱を宇都宮城から追放し、宇都宮城を占拠してしまう。
壬生綱房は芳賀高経の子芳賀高照を傀儡として利用するために当主として迎え入れ、塩谷氏などの宇都宮重臣らを従え、広綱に敵対する。そして下野各地を侵攻し、統一に乗り出す。大永の内訌から始まった宇都宮氏の衰退はピークを迎え、滅亡の危機に晒された。
宇都宮城奪取
1551年、宇都宮城を追放された広綱は側近の芳賀高定に守られて、真岡城にて高定の補佐を受けて育っていた。
そして2年後、広綱の側近・芳賀高定が謀略を駆使して父(尚綱)の仇である那須高資を殺害すると、1555年には、高定が反抗的な家臣・芳賀高照を真岡城へ誘い出して暗殺。さらに同年、宇都宮城を占領していた壬生綱房が急死(綱房の嫡子の壬生綱雄が新たに宇都宮城主になっている)するなど時代は変化していったがこの間も壬生氏による激しい侵攻が続いており、祖母井城、八ツ木城などが落とされている。
その後、高定の尽力によって勢力を徐々に盛り返し、外交手腕によって北条氏康を味方につけ、1557年、氏康の命で広綱・高定を支援するために佐竹義昭が5000騎の兵を連れて下野に出陣し、飛山城に在陣したという。芳賀高定の尽力によって宇都宮城は広綱の手に戻り、滅亡を回避することができた。
上杉謙信の関東侵攻
宇都宮城を奪取し家督を継いだ広綱だが、すぐに次の問題に直面する、1558年「越後の龍」こと上杉謙信が関東に侵攻し、宇都宮領の多功城を攻撃してきたのである、宇都宮家は家臣の多功長朝の奮闘によって撃退し上野国の白井城まで景虎を追撃してきたが、武蔵国岩槻城主の太田氏の仲介によって和睦をしている。
北条家との争い
関東では上杉謙信による小田原城攻撃が失敗におわり、北条家が力を巻き返すと、広綱は家臣・芳賀高定の外交手腕によって佐竹義昭の娘南呂院を妻に迎え佐竹家との関係を強化さらには、上杉謙信と同盟を結んで関東制覇を目指す北条氏やその北条氏よりの諸大名と徹底して対立する。1564年には上杉謙信、佐竹義重と共に北条方の小田城主・小田氏治を小田城の戦いで敗走させている。
皆川俊宗の乱
広綱は生来病弱であり、元亀年間には花押も押せないほどにまで病状が悪化していた。宇都宮氏の重臣・皆川俊宗はこの状況を利用して宇都宮城乗っ取りを計画する。
皆川俊宗の謀反の要因としては皆川家は北条側と繋がっており 武田信玄、北条氏政による甲相同盟の締結によって、下野南部が北条、武田の二大勢力によって脅威に晒されることになったことが俊宗による宇都宮城乗っ取りが起こった主な原因である。
1572年1月14日の夜、上杉謙信との外交を任されていた宇都宮氏の筆頭重臣岡本宗慶が俊宗によって暗殺され、その翌日、宇都宮城は皆川氏によって占拠された。占拠されてから約1年間の間は皆川俊宗が宇都宮氏の主導権を握っており、俊宗は徐々に後北条氏寄りの立場を取るようになる。このために一時的だが、宇都宮氏は北条氏に屈した形となった。
しかし、広綱は1573年には同盟国の佐竹義重らとともに、皆川氏討伐を行っている。
晩 年
1576年8月7日、病のために32歳で死去した。晩年はずっと病床にあったといい、その期間は死が伏せられていた可能性もある