ポイント
- 佐竹家臣
- 大阪冬の陣で功をあげ「佐竹の黄鬼」と畏怖された。
- 多岐に及ぶ才能に長け主君・義宣から絶大な信頼を得た
誕生・死没
- 誕生:1572年
- 死没:1612年
- 享年:59歳
名 前
- 善阿弥(幼名)
- 半右衛門(通称)
所 属
親 族
父 | : | 梅津道金 |
母 | : | 木村氏娘 |
兄弟 | : | 木野春阿弥(兄)、木野忠道(兄)、彌生(兄) |
梅津正一(弟)、梅津政景彌生(弟) | ||
妻 | : |
前室 : 矢野憲重娘 継室 : 根本行道娘 |
子 | : | 梅津廉忠、梅津忠國、上曽治俊室 |
梅津忠雄、梅津忠貞、娘 |
略 歴
1572年 | 0歳 | 梅津道金の三男として誕生 |
1600年 | 18歳 | 佐竹家が常陸国から出羽国に移封 300石を与えられて近習出頭人に就任 |
1614年 | 32歳 | 大阪夏の陣に参陣し功をあげる 徳川秀忠に謁見 |
1630年 | 59歳 | 死 没 |
概 要
大坂の陣では全身に傷を負いながらも奮戦、「佐竹の黄鬼」の異名をとった。のちに家老となり、武勇、政治、歌など多彩な才能をもちより主君・義宣から絶大な信頼を受けた。
梅津氏
梅津氏は元々宇都宮氏に仕える家系であったが、憲忠の父・道金が宇都宮家から逃亡して常陸太田に移り住み佐竹家に仕えた。
幼少期
父・道金は逃亡生活を送っていたため、憲忠は貧しい幼少時代を送った、しかしそんな中でも学問に専念していたという。
その後、佐竹北家の佐竹義憲に仕え、義憲の影響を受けて育ち、後に優れた政治手腕を発揮する素養が培われた。
また、自ら義憲から偏諱を所望し、「憲忠」と名乗った。真崎某という同僚と諍いを生じ、真崎に斬りかかって負傷させたかどで一時期出奔していたが、義憲の取り成しで帰参している。義憲は憲忠にとって大恩ある人物だった。
久保田藩の発展
1600年、「関ヶ原の戦い」で中立を保った佐竹家は罰として徳川家康から常陸国から出羽国に移封された。
憲忠は300石を与えられて近習出頭人に抜擢され、弟・政景や渋江政光らと共に藩政の改革に力を注いだ。
久保田藩は藩主・佐竹義宣の指揮の元、林業、鉱業、農業を基軸に置いた振興を行い財政を立て直した。これには憲忠、政景兄弟の献策の寄与するところが大きかったとされ久保田藩の発展に大きく貢献した。
大阪冬の陣
1614年、憲忠は子・廉忠と共に「大坂冬の陣」参陣し、「今福の戦い」で奮戦して武勲を挙げた,
この時憲忠は黄唐織の幌を飾り、全身に傷を負いながらも遮二無二奮戦し「佐竹の黄鬼」と畏怖された。
優れた政治手腕
長年の実績を評価された憲忠は家老に抜擢され、大坂の陣で志半ばにして戦死した渋江政光が推進していた検地を引き継いで施行し、弟政景と共に藩の地盤固めに貢献した。
逸 話
軍足餅
大阪冬の陣の翌年、憲忠は徳川秀忠に拝謁し、その大阪冬の陣での戦功を表彰されて信国の太刀と感状を賜っていた。これには多くの人々が祝いに訪れ、憲忠はこれに対して具足餅を振る舞った。この饗宴は恒例化し、梅津家では毎年1月17日に具足餅を振る舞う行事が催されるようになった。
処刑人
1624年、領内に禁教令(キリシタン禁止)が出された際、憲忠は奉行としてキリシタン33人を処刑している。
主君・義宣からの絶大な信頼
憲忠は優れた政治家、武将である一方で、連歌や書道に造詣が深い教養人でもあり、義宣も鷹狩の帰り道に憲忠の屋敷に立ち寄り共に歌や茶の湯に興じた。