長尾為景に擁立され越後守護となった越後上杉家最期の当主

上杉 定実うえすぎ さだざね

概 要

上条上杉家である上杉房実の長男として誕生する。
その後、長尾為景に擁立され越後上杉家に養子としてはいり家督を継いだ。1550年に病死するが実子がいなかったため、越後守護は長尾景虎(後の上杉謙信)が継いだ

  ポイント

  • 越後上杉家8代目で最期の当主
  • 実子がいなかったため、死去後の越後守護は長尾景虎(上杉謙信)継いだ

誕生・死没

  • 誕生:????年
  • 死没:1550年
  • 享年:??歳

名 前

  • 玄清(号)
  • 永徳院殿(戒名)

所 属

役 職

  • 越後守護

親 族

実父 上杉房実
養父 上杉房能
正室 上杉房能の娘
継室 長尾能景の娘
兄弟 積翠院(伊達尚宗の正室)、定実上条定憲、定明
長尾晴景の正室、蘆名氏の室

略 歴

????年 ?歳   上杉房実の長男として誕生
1503年 ?歳  越後守護・上杉房能の娘を正室に迎えて婿養子となる
1507年 ?歳  長尾為景に擁立されて房能を破り自害させる
1508年 ?歳  越後守護となる
1509年 ?歳  関東管領・上杉顕定が越後に侵攻し、定実が越中国へ逃亡
1510年 ?歳  長森原の戦いで顕定を敗死させ越後に帰還する
1513年 ?歳   為景に反抗するが失敗におわる
1536年 ?歳   再び為景に反抗し為景を隠居に追い込む
1538年 ?歳   定実に伊達家からの養子計画があがる
1539年 ?歳   養子計画に反対していた本庄房長領に伊達軍が侵攻(国内の情勢が悪化)
1542年 ?歳   伊達家で「天分の乱」が勃発(伊達家からの養子計画が無くなる)
1546年 ?歳   黒田秀忠が謀反を起こすが長尾景虎(後の謙信)が鎮圧
1548年 ?歳   越後守護代を争って長尾晴景と景虎の争いが勃発
1550年 ?歳   死 去

出 自

上条上杉・上杉房実の長男として誕生

定実は上条上杉家(越後上杉家の分家。上条清方が創立)の出自である。残念ながら上条上杉家の出身ということ以外の詳細はわかっていない。

越後上杉家の養子となる

1503年、当時の越後守護・上杉房能には家督を継ぐ実子がいなかったため、定実は房能の娘を正室に迎えて越後上杉家へ婿養子として入った。
上杉房能は定実にとって従兄弟になり、従兄弟の娘を正室に迎えたということになる。

越後守護就任

越後守護代・長尾為景に擁立され房能を倒し越後守護となる

1507年、越後国内では越後上杉家より、守護代・長尾為景が力を持っていた、その状況に危機感を抱いた越後守護・房能は為景を密かに討伐しようとした。
この動きを察知した為景は定実を擁立し逆に房能の館を襲撃し、房能は逃亡中に自害した。
これにより、定実は正式な越後守護となり越後上杉家の家督を継いだ。しかし、実際は為景の傀儡に過ぎなかった。またその際に為景の妹を娶った。

永正の乱

関東管領・上杉顕定が房能の報復のため越後に侵攻する

1509年、定実の謀反によって殺害された房能の実兄である関東管領・上杉顕定が報復のために越後に侵攻した。
定実と為景はこれに敗れ越中国へ敗走する。
1510年、越後の国人を掌握できていない顕定軍の内情を見て、定実と為景の軍勢は越中から佐渡国を経由して蒲原津に上陸し、佐渡の軍勢を加えて勢力を盛り返し越後各地で顕定方の軍勢を破り、 「長森原の戦い」で顕定を敗死させ越後国の奪還に成功した。

為景への反抗

国人勢力をまとめ為景へ反抗し隠居に追い込む

1513年、為景の傀儡であることに不満を抱いた守護家家臣筋の宇佐美房忠定満父子や弟の上条定憲、有力国人などを統合して春日山城を占拠して断続的に抵抗を続けたが失敗、一時幽閉されるなど権威はますます失墜した。
だが、その後、上条定憲らが再び反為景勢力を結集し、1536年に為景を隠居に追い込んだが、定実が実権を握るまではできなかった。それでも為景の跡を継いだ長尾晴景は求心力に欠けていたため、定実の権力は一応の回復を見せた。

伊達家との関係

伊達家からの養子縁組を計画する

定実には家督を継ぐ実子がいなかったため、伊達家当主・伊達稙宗の子である時宗丸との養子縁組の話が計画された。
しかし、この縁組について反対派であった阿賀北小泉荘の本庄房長領に伊達氏の軍勢が侵入し、越後北部や出羽国での上杉傘下の国人領主同士の対立を招いた。
定実は自身が出家すること、定実の諱である「実」の字を時宗丸に与えること、上杉氏重代の腰刀「長光」と「竹に雀」の家紋を贈ることで進展を図り時宗丸の進展させ出発日まで確定させた。
しかし、伊達家内で内乱(天分の乱)が勃発したためこの縁組は中止された。

守護代の対立

長尾景虎(後の上杉謙信)の登場

1545年、家臣の黒田秀忠が反乱を起こした。しかい、この反乱は長尾晴景の弟・長尾景虎(後の上杉謙信)が鎮圧した。
この、活躍を受け定実や周囲の人が景虎に一目置くことになった。1548年に、晴景と景虎の争いが勃発した際も定実は景虎の擁立に尽力した。

晩 年

出家した後に病死する。越後職は長尾景虎(上杉謙信)が継ぐ

晩年は出家して「玄清」と名乗り、1550年に病死。定実の死後は跡継ぎがない越後守護家は断絶することとなり、室町幕府13代将軍・足利義輝の命令で景虎が越後守護を代行した

参考資料(引用元)