関東の大乱「享徳の乱」のきっかけとなった武将

上杉 憲忠うえすぎ のりただ

  ポイント

  • 還俗し山内上杉家当主なる
  • 古河公方・足利成氏に暗殺され「享徳の乱の」きっかけとなる

誕生・死没

  • 誕生:1433年
  • 死没:1455年
  • 享年:22歳

同年代の人物

  • 葛西政信、葛西政信、京極勝秀
  • 細川成春、櫛橋則伊、相良堯頼

名 前

  • 龍忠(幼名)

官位・幕職

  • 右京亮
  • 関東管領

所 属

親 族

上杉憲実
上杉持朝の娘
兄弟 上杉房顕(弟)、周清、法興、周泰

略 歴


1433年 0歳  上杉憲実の長男として誕生
1439年 6歳  父とともに出家
1447年 14歳  憲忠が関東管領に就任したため父・憲実が憲忠に対して絶縁する
1449年 16歳  足利成氏(永寿王)が鎌倉公方として復帰する
1450年 17歳  江ノ島合戦が勃発
江ノ島合戦の責任をとって憲忠が相模国七沢に幽閉される
1455年 22歳  足利成氏により暗殺される(享徳の乱の勃発)

概 要

山内上杉家9代当主。上杉憲実の嫡男。父と共に出家したがその後復帰し山内上杉家の家督を継ぐ。鎌倉府を再興した足利成氏に暗殺され「享徳の乱」が勃発する。

関東管領就任

1433年、上杉憲実の長男として誕生した。

1439年、父・憲実が「永享の乱」主君であった古河公方・足利持氏を滅ぼしたことに対しての罪悪間から出家したとき、憲忠も父と共に出家した。憲実・憲忠の両親子が出家したため、山内上杉家はが当主不在の状態となった(憲実の弟・清方が名代なっていた)。

憲実は従兄弟である常陸国の佐竹実定を後継者に指名して文書などを譲り渡した。
これに反発した山内上杉家臣・長尾景仲は実定を排除して憲実の長男である憲忠を擁立、やがて山内上杉家の家督を継いだ。

しかし、父・憲実は憲忠に家督相続させる気がなく、憲忠が家督を相続すると勘当している。

1447年に書かれたとされる「建内記」(室町時代中期の日記)には後花園天皇から憲忠に対して直接関東管領に任じたと記載されている。

江ノ島合戦

1449年、鎌倉公方・足利持氏の遺児・足利成氏(永寿王)が鎌倉公方として復帰することになった。
復興後の鎌倉公方は、政治的基盤が脆弱になっていた。成氏が幕府に申し入れをする場合、憲忠の許可が必須であり、憲忠の許可がない場合幕府は取り合わなかった。そうした状況もあって、成氏は強いいらだちを覚え、さらに父の仇である憲忠への殺意を募らせることになった。
これに対して危機感を覚えた山内上杉家臣・長尾景仲は主君・憲忠にだまって扇谷上杉家当主・上杉持朝と共謀して足利成氏を攻め滅ぼそうとする。(江ノ島合戦)
しかし、これは失敗に終わり、逆に反撃を受けてしまう。
憲忠は直接この事件には関与していなかったが、家臣の責任を負う形で相模国七沢に幽閉を余儀なくされた。

享徳の乱の勃発

江ノ島合戦後、成氏に罪を許されて復帰した憲忠だが、成氏と憲忠の対立はさらに深まり1455年1月15日、鎌倉にある成氏の西御門邸に招かれた憲忠は、成氏の命を受けた結城成朝の家臣・多賀谷氏家・高経兄弟によって謀殺された。享年22歳であった。
憲忠の死を契機として、憲忠の遺臣と上杉持朝は連合軍を結成、足利成氏と合戦を始め、泥沼の抗争が幕を開くこととなる

憲忠の殺害について、『康富記』(室町時代の日記)は、成氏が父・持氏の死因を憲実にあるとみなし、彼に対して抱いていた憎悪を憲忠へ発露させたと記述している。

憲忠殺害の翌年1456年、成氏は憲忠殺害に対する弁明の書状を幕府に対して提出している。
しかし、その内容は謝罪ではなく開き直りに近いものであった。この弁明書の他にも、成氏は何回か幕府へ弁明書を送ったが、幕府はそれを黙殺した。