山内上杉家12代当主だが家督争いに敗れ2年で追放された悲劇の将
上杉 顕実
ポイント
- 古河公方・足利成氏の次男
- 山内上杉家に養子に入り12代当主となる
- 養子兄弟・憲房に家督を奪われる
誕生・死没
- 誕生: ? 年
- 死没:1515年
- 享年: ?
名 前
- 四朗
- 義綱(養子前)
官職・役職
- 官位:民部大輔
- 幕府:関東管領
親 族
略 歴
1494年… | 山内上杉家11代当主・上杉顕定の養子として上杉家に入る | 1510年… | 長森原の戦いで養父・顕定が戦死すると家督を継ぐ |
1512年… | 養兄弟・憲房を支持する横瀬景繁・長尾景長に攻められて敗北、実権を喪失し逃亡する。 |
1515年… | 逃亡先で病死する。 |
生い立ち
古河公方・足利成氏の次男として生まれる。
当初は「足利義綱」と名乗っており。その後山内上杉家に養子入る。これは、山内上杉家が東側の安定、特に足利家と親密な関係を築きたっかたためといわれている(この頃山内上杉家は今川家や扇谷上杉家と争っていた)。
養子に入った義綱は名を顕実と改め鉢形城に入城した。
家督相続と失脚
養父・顕定が越後に侵攻すると顕実もこれに従軍した。初めこそは越後の領地を次々と支配していったが、佐渡の兵を借りた長尾為景に撃退され遂に、長森原の戦い養父・顕定が敵の援軍(信濃の高梨政盛)に破れ自刃してう。
からくも生き残った顕実は顕実の継承者として山内上杉家と関東管領職を継ぐが、同じ養子の憲房と対立していう。顕実は実兄で古河公方の足利政氏に援助を求めるが、憲房は政氏の子・高基を味方につけ対抗し、山内上杉家はもちろん関東まで2分してしまう。
そして、顕実は長尾顕方や成田顕泰の支援を受けて武蔵国鉢形城篭ったが、永正9年(1512年)に憲房を支持する横瀬景繁・長尾景長に攻められて敗北、実権を喪失し逃亡します。その後まもなく病死したと記録が残っています。
この内乱の結果山内上杉家の衰退に繋がり後に後北条氏に攻められてしまいます。