その忠誠心は後世まで「三河武士」として称された松平3代に仕えた武将

鳥居 忠吉とりい ただよし

概 要

鳥居元忠の父。三河碧海郡渡城主。松平清康、広忠、徳川家康の3代に仕え、今川家による統治下の中、松平党が困窮に陥った中でも 家康帰参のため倹約・蓄財に心血を注ぎ、その忠誠心は「三河武士」として名声を高めた。

 ポイント

  • 鳥居元明の次男。鳥居元忠の父
  • 松平清康、広忠、徳川家康の3代に仕えた
  • 松平党が困窮に陥った中でも、松平党のため倹約・蓄財に心血を注いだ

誕生・死没

  • 誕生:????年
  • 死没:1572年
  • 享年:?歳
  • 死因:病死?
  • 墓所:不退院(愛知県西尾市)

親 族

: 鳥居忠明
 子: 忠宗本翁意伯元忠
忠広、娘(三宅政貞室)
   娘(松平重勝室)、本多重次正室

略 歴


1549年 ?歳  岡崎城が今川家の管理下に置かれる
1560年 ?歳  桶狭間の戦いに従軍
1572年 ?歳  死 去

鳥居家とは

出自は紀伊国熊野権現の神職の家柄

鳥居家の祖である熊野新宮第19代別当行範(重氏)は平清盛から平氏の姓を賜り平氏と称し、通称「鳥居法眼」と呼ばれた。承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄に移り、土着して忠氏と改名したと伝わる。

誕 生

三河碧海郡渡城主・鳥居忠明の子として誕生

鳥居忠明の子として誕生。生年は不明だが、死去した時に80余歳と伝えられているため、文明から明応年間(15世紀末)の生まれと推定される。

松平家の家臣として活躍

岡崎譜代

忠吉は当初、三河国の戦国大名・松平清康に仕えていた。
仕えた時期については、忠吉以前の当主が松平氏に仕えていた事が確認できないため、松平清康が岡崎城に進出したのを機に仕えた「岡崎譜代」と呼ばれる家臣層であったと推定されている。

今川管理下に置かれた岡崎城

清康の死後は分家の桜井松平家当主・松平信定に対抗できないほど弱体化し、駿河国の名門・今川氏の傘下に入って勢力を保った。
しかし、1549年に清康の子で主君・広忠が死去したため、その後は新たな幼主・竹千代(後の徳川家康)の身柄が駿府に預けられ、岡崎城は今川氏の管理下に置かれた。

三河武士として

今川家の管理下に置かれた岡崎だったが実際は、今川氏から派遣された城代による統治よりも、忠吉と阿部定吉らとの実務によって成り立っていた。
だが、収穫などの富は今川氏への分配が多く、松平党は日々の暮らしにも困窮する。そんな僅かになった収穫であっても、家康が帰参するであろう将来に備えて倹約・蓄財に心血を注いだ事で知られる。阿部が死去すると忠吉の下に、松平家臣団は一段と結束する。貧しさに苦しもうとも、いざ合戦となると、命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけた。
その忠誠心は後世まで「三河武士」として名声を高めるが、当時の彼らの姿勢や意識は、家康を想う忠吉によって植えつけられた。

松平家の独立

桶狭間の戦い後

1560年、桶狭間の戦いでは家康に従軍し、今川義元の戦死後、大樹寺より岡崎城に入った若き主君・家康に、今まで蓄えていた財を見せ、「苦しい中、よくこれだけの蓄えを」と家康に感謝されたという。

死 去

家康の独立後は高齢を理由に岡崎城の留守を守り、1572年に死去した。
その後の鳥居家は、長男・忠宗が戦死し、次男・本翁意伯は出家していたため、三男・元忠が家督を相続した。

人 物

鳥居家の財力

苦難の時代に異常なほど財を蓄えていたのは忠吉が「ワタリ(渡り)」(各地へ物品を買い求め売り捌く商工業者)だったためではないかと推測されている。
『永禄一揆由来』では「分際宜き買人」とあり、『三州一向宗乱記』では「農商を業とする富裕の者」とあり、鳥居家はかなりの経済力を持っていたようだ[2]。鳥居家は三河碧海郡を居としており、ここは矢作川の水運で栄えた水陸交通の要衝のため、船や馬などの経済活動でかなりの富を蓄えていたと考えられている。