ポイント
- 第16代当主武田信昌の子
- 父・弟と家督争いを繰り広げる
- 父と和睦後は外敵の侵攻に悩まされる
誕生・死没
- 誕生:1471年
- 死没:1507年
- 享年:37歳
官職・役職
- 官位: 従四位下、左京大夫
- 陸奥守
親 族
略 歴
1471年 | 1歳 | 武田信昌の嫡男として誕生 | 1491年 | 21歳 | 父・信昌が隠居し家督を継承 甲斐国内において有力国人勢力の抗争から乱国状態となる |
1492年 | 22歳 | 信縄VS信昌・信恵の家督争いが勃発 |
1494年 | 24歳 | 北条早雲が甲斐都留郡へ侵攻し断続的に抗争状態となる |
1495年 | 25歳 | 嫡男・武田信虎が誕生する |
1496年 | 26歳 | 熊野神社に制札を掲げ領国掌握に務める |
1498年 | 28歳 | 信昌・信恵と一時的に和睦する |
1505年 | 35歳 | 父・信昌が死去し、再び信恵方との抗争が活発する |
1506年 | 36歳 | 病平癒のため富士浅間大菩薩に願文を捧げる |
1507年 | 37歳 | 死 没 |
概 要
武田家17代当主。
父・信昌が弟・油川信恵に家督を譲ろうとしたため、父や弟と戦う。のちに和睦し家督を継ぐが、家中の対立に乗じた今川家や北条家などの外敵の侵入に悩まされ続けた。
誕 生
1471年、武田家16代当主・武田信昌の嫡男として誕生する。
出生地や居館は不明であるが、信昌期以来武田氏の居館が存在した石和の川田館や、信昌隠居後の居館である東郡の落合館などが考えられている。
母親も不詳で、山梨郡の国人・栗原氏の娘とする説が有力だが、異説として穴山氏系の説がある。
兄弟には異母兄弟の油川信恵などがいる。
信縄誕生時の甲斐国
甲斐国では室町期に上杉禅秀の乱により守護武田氏が衰退し国内外の国人勢力や守護代の跡部氏が台頭して。
信昌期には跡部氏を排斥する一方で、新勢力の台頭を招き甲斐は守護武田氏と穴山氏、東郡の栗原氏、西郡の大井氏など有力国人勢力の抗争から乱国状態となっており、駿河国の今川氏など対外勢力との抗争も発生していた。
家督争い
1491年に父・信昌が落合(山梨市)へ隠居し嫡男である信縄が家督を継承する。
信縄への家督継承後、父の信昌は信縄の異母弟である油川信恵(彦八郎)を後継者に望むようになったといわれ、甲斐国内の乱国状態は国人勢力の抗争と信縄と信昌・信恵間の武田宗家の内訌も関係して展開され、「王代記」では甲斐乱国の状態を「兄弟争論」と記述している。
信恵は勝山城を本拠に父の信昌や郡内領主の小山田氏らを味方に付けて信縄と対抗する。しかし、北条軍の侵攻や明応の大地震が発生し、信縄と信昌・信恵の抗争は一時的に和睦が成立するが、1505年には信昌が死去し、再び信恵方との抗争が活発化した。
外敵との戦い
1492年には東郡の栗原大輔が河内の穴山信懸のもとへ退去すると、信縄は追撃を行っており、同年7月には、市川(市川三郷町)において信縄と穴山氏の合戦が行われ、同年9月、駿河今川氏が甲斐へと侵攻している。
さらに、1495年には相模国から伊豆への進出を志向する伊勢盛時(北条早雲)が甲斐都留郡へ侵攻し以後は断続的に国境での抗争が起こっている。
晩 年
1506年、病平癒のため富士浅間大菩薩に願文を捧げたが、1507年2月14日に病死した。
享年37。後を嫡男の信直(武田信虎)が継ぎ、信虎期の1508年、坊ヶ峰合戦で信恵方を破り、甲斐国内の統一がほぼ達成されることになった。