甲斐武田氏の一族。成氏に仕え上総を治め子孫は真里谷氏、庁南氏

武田 信長たけだ のぶなが

信長が築城した真里谷城

概 要

甲斐武田家の一族。戦国時代に活躍した庁南氏と真里谷氏の先祖。甲斐国内の内乱に敗れ関東へ逃れると、足利義教に仕え結城合戦等で活躍。
その後は古河公方・足利成氏に仕え、上総の上杉家を攻めこれを攻略し領地化した。

 ポイント

  • 甲斐守護・武田信満の次男
  • 足利成氏に仕え上総の上杉氏を攻略し領国化する
  • 庁南氏、真里谷氏の先祖

誕生・死没

  • 誕生:?
  • 死没:1477年
  • 享年:?

名 前

  • 悪八郎(別名)
  • 豊三(通称)

官 位・役 職

  • 官位:右馬助

親 族

実父 武田信満
小山田氏?
兄弟 武田信重信長 、江草信秦
   今井信景 、 倉科信広
武田信高 、 清嗣 、里見義実の正室
    築田持助の正室

略 歴


1416年 ?歳  上杉禅秀の乱において父・信満が敗しする
甲斐国内が無法状態となる
信長が逸見氏と争う
1421年 ?歳  信長が鎌倉府・足利持氏から「反逆」扱いとされる
1423年 ?歳  兄・信重が甲斐守護に任命される
1426年 ?歳  鎌倉府の討伐軍に敗れ鎌倉へ連行される
1433年 ?歳  甲斐へ戻り跡部氏と戦うがこれに敗れ駿河に逃れる
1440年 ?歳  足利義教に仕え結城合戦で活躍
相模西部に所領を得る
1456年 ?歳  足利成氏の命を受け上総の上杉氏を攻め同国を領地としする
1458年 ?歳  庁南城、真理谷城を築く
1463年 ?歳  隠居し家督を嫡男武田信高にゆずる

出生と甲斐国の状況

★ 父の死により甲斐は無法状態となる

1390年ごろ甲斐守護・武田信満の次男として生まれる。1416年に「上杉禅秀の乱」が勃発すると、父、兄とともに鎌倉府と対立する上杉禅秀方に参加し関東へ出兵した。
この戦いは鎌倉府側の勝利に終わり、父は自害、兄は高野山へ逃走した。守護を失った甲斐は信長の叔父・信元が守護に命ぜられるが逸見氏、穴山氏、跡部氏ら有力国人勢力らが台頭し国内は戦乱状態となった。
乱に敗れた信長は、甲斐に戻り新たな武田信元に協力し、鎌倉府と結んび甲斐守護の着任を狙っていた逸見有直と戦った。

幕府、鎌倉府と対立

★ 幕府が信長を反逆者扱いとし討伐軍を派遣敗れた信長は鎌倉府に従うこととなる

1420年前後に甲斐守護・武田信元が亡くなると、信長の嫡子・武田伊豆千代丸(信高?)が養子として跡を継いだが、伊豆千代丸はまだ幼く、事実上甲斐は信長が治める状態になった。
しかし、幕府は高野山に逃れていた信長の兄・武田信重を信元の家督を継いだ甲斐守護として派遣、また鎌倉府も吉見伊予守、上杉憲家、一色持家らを進軍させ、信長の支配は幕府、鎌倉府双方から認められないものとなった。
これに対し信長は郡内猿橋において鎌倉府軍と戦うが田原において敗北し鎌倉府に降伏、鎌倉府に従うことになったのである。

鎌倉公方・足利持氏との対立

鎌倉公方の家臣として活躍した信長だが次第に鎌倉公方・足利持氏と対立。信長は甲斐へ戻り甲斐守護代・跡部氏と争うが敗れ駿河へ退去する

鎌倉府に降伏して以降、信長は鎌倉公方の宿老として活躍したが次第に鎌倉公方・足利持氏とも対立するようになる。そして1433年、信長は鎌倉から甲斐い戻り、甲斐守護代・跡部氏と抗争に入った。しかし、信長はこの戦いに敗北し、駿河に退居した。これ以降、駿河守護・今川範忠と結びついた信長はしばらく動向がわからなくなった。

足利成氏の奉公衆として活躍

結城合戦での武功により相模西部に所領をて、足利成氏の許、奉公衆として重用された

1438年、鎌倉府で「永享の乱」が勃発、足利持氏追討のために派遣された、犬懸上杉教朝に信長の兄・武田信重がこれに従い甲斐に入国し、鎌倉府側の逸見氏と対立しながらも、跡部氏と協力し守護として活動を始める。
このころ信長は6代将軍・足利義教に仕えており1440年の結城合戦で斯波持種、四条上杉持房率いる幕府軍に従って関東へ入国し結城合戦に参戦する。信長は幕府軍が引き上げた後も関東に残り、結城合戦での武功により相模西部に所領を得た。
その後、足利成氏による鎌倉府復活によってその奉公衆となり、有力宿老の一人として活動し、成氏から重用された。

上総武田家の始まり

足利成氏の命により上総の上杉家を攻略し同国を所領とした

1454年、感動で「享徳の乱(鎌倉公方VS関東管領・上杉氏)」が勃発すると武田信長は一色直清とともに相模からの上杉軍に対する大将に任じられ、扇谷上杉持朝率いる上杉軍を打ち破る。
その後、1456年以降上総の上杉領に攻撃し同国を支配下に置き、1458年ごろには庁南城、真里谷城を築き上総武田氏の成立の基盤を築いた。
その後1477年ごろ上総にて死去したといわれている。