ポイント
- 第15代当主武田信守(弥三郎)の子
- 守護代・跡部氏を排除する
- 嫡男・信縄との家督争いが勃発
誕生・死没
- 誕生:1447年
- 死没:1505年
- 享年:59歳
官職・役職
- 官位: 従五位 下刑部大輔
略 歴
1447年 | 1歳 | 武田信守の嫡男として誕生 | 1455年 | 8歳 | 父・信守が死去し家督を継ぐ |
1457年 | 10歳 | 小河原合戦、馬場合戦で甲斐守護代・跡部氏に大敗する |
1458年 | 11歳 | 諏訪信満の援助を受け夕狩沢合戦で跡部氏を撃破し排除する |
1472年 | 25歳 | 信濃佐久郡の国人・大井政と争う(花鳥山合戦) |
1490年 | 32歳 | 穴山氏・大井氏・小山田氏等が独立の動きを見せる |
1492年 | 34歳 | 家督を嫡男・信縄に譲るが後に次男の油川信恵への家督相続をのぞみ武田家内で家督争いが勃発 |
1498年 | 40歳 | 信縄と和睦する |
1405年 | 47歳 | 死 没 |
概 要
甲斐守護。専横を振るう跡部駿河を討ちまた外敵の排除に努めるなど、領内の安定に努めた。次男・油川信恵に家督を譲ろうとしたため、長男・信縄と争った。
家督相続
1455年、父・信守の早世により幼くして家督を継ぐ。
信守も若年での相続だったこともあり、武田氏は守護代の跡部明海(駿河守)・景家(上野介)父子の横暴な振舞いを許していた。
守護代・跡部氏との因縁
1455年「享徳の乱」が勃発すると武田氏と跡部氏の対立も決定的になります。
そして1457年には小河原合戦、馬場合戦において両者は激突しますが、武田家は劣勢を虐げられ一門の吉田氏や岩崎氏らを失ってしまいます。
しかし、1464年に明海が死去すると、翌年には信濃諏訪領主諏訪信満の援助を受け夕狩沢合戦において明海の子の景家を撃破し、小田野城で景家を自害させ、跡部氏を排除に成功します。しかしその後も甲斐国内は安定せず有力国衆の台頭や対外勢力の侵入に悩まされたとされています。
甲斐国内の状況
1472年、信濃佐久郡の国人大井政朝が甲斐八代郡へ侵攻してきたため、花鳥山(山梨県笛吹市)で合戦を行った。
後に信昌は大井氏の弱体化を見て逆に佐久郡へ侵攻したが、同じく佐久に侵攻していた村上氏のためにこれを阻まれたとされています。また、信昌期に飢饉や疫病の蔓延、一揆の発生などの記事が散見している。こうした中、1490年には穴山氏・大井氏(武田大井氏)が合戦を始めるなど、穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏といった国内の有力者が自立の動きを見せるようになる。
後継者争い
1492年に長男・信縄に家督を譲って隠居すると。矢坪(山梨市矢坪)に永昌院を創建して菩提寺としている。また「落合御前」と呼ばれていることから、万力郷落合に館を構えていたと考えられている。
しかし、家督を信縄に譲ったにも関わらず、信昌は次男の油川信恵への家督相続をのぞみ、信昌・信恵方と信縄の内訌が双方を支持する甲斐有力国衆・対外勢力との争いと関係し、甲斐は乱国状態になったという。
1498年に一度和睦し、伊豆の伊勢盛時の介入に対抗したが、盛時の脅威が去ると再度信縄と抗争した。信縄との抗争の最中、永正2年(1505年)に59歳で死去。法名は永昌院殿傑山勝公大禅定門(『甲斐国志』に拠る)。
信昌は長期にわたり国主の立場にあり、国人勢力や対外勢力を撃退し、後代の譜代家臣層のなかに「昌」の偏諱を持つものが多いことから甲斐の国内統一を進展させたと評される一方で、晩年には国内を二分する内乱を招き、武田氏の戦国大名としての飛躍を果たすことができなかった。この内乱は1508年に孫の武田信虎が信恵を討ち取るまで続く。