コシャマインの戦いで功をあげた松前(蠣崎)氏の先祖

武田 信広たけだ のぶひろ

武田信広

武田信広

  ポイント

  • 若狭武田家の出身
  • 松前(蠣崎)氏の先祖
  • コシャマインの戦いで活躍

誕生・死没

  • 誕生:1431年
  • 死没:1494年
  • 享年:64歳

名 前

  • 彦太郎(幼名)

親 族

  •  父 : 武田信賢?
  • 養父 : 蠣崎季繁
  •  子 : 蠣崎光広

略 歴

1431年 1歳  若狭国の守護大名・武田信賢の子として若狭小浜青井山城にて誕生
1452年 21歳  若狭を出奔
1454年 23歳  蠣崎季繁の婿養子となる
1456年 25歳  嫡男・光広が生まれる
1457年 26歳  コシャマインの戦いが勃発
1458年 27歳  コシャマイン父子を弓で射殺しアイヌ軍が崩壊する
1462年 31歳  勝山館を築城しする。
1494年 64歳  死 没

概 要

若狭国の守護大名・武田信賢の子として誕生し陸奥田名部に移住。のち蝦夷松前に渡って上ノ国・蠣崎季繁の養子となる。その後アイヌ人との戦い(コシャマインの戦い)で戦功をあげた。

出 生

若狭国の守護大名・武田信賢の子として若狭小浜青井山城にて誕生する。
父・信賢が死亡すると信広はまだ幼少だったため家督は信賢の弟・国信(信広の叔父)に譲られた。
しかし、間もなくすると国信に実子・信親が誕生したことで信広の国信は不和になった。また、国信の子とする説もあるが、若狭武田氏との関係は当時の若狭と北出羽地域の交流の深さに基づく後世の仮託と考えられている。

若狭出奔

信広が21歳の時に家子の佐々木三郎兵衛門尉繁綱、郎党の工藤九郎左衛門尉祐長ほか侍3名を連れて夜陰に乗じて若狭を出奔したという。
暫くは古河公方・足利成氏の下に身を寄せていたが、この年の内に三戸の南部光政の下へ移り、陸奥宇曽利に移住し、南部家の領分から田名部・蠣崎の知行を許され、蠣崎武田氏を名乗るようになった。

蠣崎家への養子

1454年になると今度は安東政季に仕え、南部大畑より蝦夷地に渡り、上国花沢館の蠣崎季繁に身を寄せた。その後、季繁に気に入られてその婿養子となり、蠣崎姓に改め蠣崎家を継いだ。

コシャマインの戦い

1457年アイヌによる和人武士の館への一斉襲撃があり、和人武士団とアイヌの間でコシャマインの戦いが始まった。
開戦当初は、当時蝦夷地にあった道南十二館のうち10館が陥落するなど、奇襲攻撃を受けた武士達が追い詰められていたが、季繁の下にいた信広が武士達をまとめあげて大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退し、とうとう七重浜にてコシャマイン父子を射殺し首を取った。この功績により信広の蝦夷地における地位は決定的となった。寛正3年(1462年)には勝山館を築城している。

そして、1494年死没した。享年64

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