浅野長政の推挙を受けて徳川家に旗本として仕えた。

菅谷 範政すげのや のりまさ

  ポイント

  • 小田家家臣
  • 佐竹家に奪われた小田城を奪還する
  • 主君・小田氏治の死後、徳川家康に仕える

誕生・死没

  • 誕生:1558年
  • 死没:1612年
  • 享年:54歳

官 位

  • 左衛門大夫

名 前

  • 菅谷政光(初名)

親 族

菅谷政貞
菅谷範貞

略 歴

1558年 0歳  菅谷政貞の子として誕生
1583年 25歳  主君・小田家と共に佐竹家に服従
1590年 32歳  豊臣秀吉の小田原征伐
大名としての小田家滅亡
1596年 38歳  徳川家の家臣となる
1612年 54歳  死 没

概 要

小田家臣。政貞の子。主君・氏治が小田城を奪われるたびに居城に迎え、その奪還に努めた。氏治の没後、浅野長政の推挙を受けて徳川家に旗本として仕えた。

佐竹家との戦い

1558年、小田家家臣・菅谷政貞の嫡男として誕生。
この頃の小田家は、佐竹家からの攻撃を度々受け、何度も居城である小田城を奪われていた。 小田家の忠臣である菅谷家はその度に主君。小田氏治を居城である土浦城に招き小田城を奪還していた。

しかし、1583年になると北条家の力なく佐竹氏に対抗する術がなく主君・氏治が佐竹氏に臣従したため、菅谷家もこれに従ったという。

小田原征伐後

1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が勃発すると、先祖伝来の故地・小田城奪回に執念を燃やす小田家は北条家と手を結び佐竹家と豊臣家に対して最後の反抗を示した。
「樋ノ口の戦い」にて佐竹軍と戦うが決着が着かず、豊臣秀吉の命により小田家は所領を全て没収され、大名としての小田氏はここに滅亡した。

その後、主君・氏治は300石で徳川家康の次男・結城秀康に従った。
対する、範政は浅野長政に小田氏に対する忠心を評価され、徳川家康の家臣に推挙され1000石、のちに5000石余りまで加増され旗本として活躍した。

その後、余生を過ごし1612年、54歳で死去。子孫は幕末まで続いた。