ポイント
- 小田家家臣
- 佐竹家に奪われた小田城を奪還する
- 大掾家・宇都宮家などの戦いで活躍
- 後に主君・氏治とともに佐竹家に服従する
誕生・死没
- 誕生:1518年
- 死没:1575年
- 享年:74歳
官 位
- 左衛門大夫、摂津守
名 前
- 全久(入道後)
所 属
略 歴
1518年 | 0歳 | 菅谷勝貞の子として誕生 | 1557年 | 39歳 | 小田城を佐竹家に奪われる | 1559年 | 41歳 | 小田城を奪還する | 1569年 | 51歳 | 平塚原の戦いで佐竹家に勝利 | 1583年 | 65歳 | 主君・氏治とともに佐竹家に服従 | 1590年 | 65歳 | 豊臣秀吉により小田原征伐 大名としての小田家が滅亡 |
1592年 | 74歳 | 死 没 |
概 要
小田家臣。土浦城主。勝貞の子。佐竹家に奪われた小田城を奪還し、大掾家・宇都宮家などと戦うなど活躍したが、のちに主君・氏治とともに佐竹家に属した。
不死身の小田城
政貞は1518年 、常陸国の戦国大名・小田氏の家臣である菅谷勝貞の子として誕生した。菅谷家は勝貞の代から土浦城を居城としていた。
1550年中頃になると小田家は急速に勢力を拡大していた北条家と同盟を結んだ。そのため、隣国の佐竹家との関係が悪化した。
1557年頃から小田家の居城・小田城は何度も敵(結城や佐竹)の手に落ちていました。そのため、小田家当主・氏治は政為の土浦城に逃亡し、その度に菅谷家は兵を出兵し
小田城を奪還した。その数およそ10回。
また結城家との合戦「平塚原の戦い」でも戦功をあげ小田家の勝利に貢献した。
小田家の忠臣として
1573年、ついに小田家の居城・小田城と菅谷家の居城・土浦城が佐竹家によって落城した。その際に政貞含め多くの小田家武将が討ち死に又は佐竹氏に降伏し、小田家は著しく劣勢となった。
しかし、1574年、人質として北条家に在籍していた小田友治が北条家に援軍を要請、北条氏房が土浦城を攻めさた。その際に佐竹に降っていた政貞はもとより義を守り、志を氏治に通じていたため戦わずして北条氏に降った。
その後、小田家は北条家の援軍もあり失地を回復し、佐竹義重に対抗した。
佐竹家に服従
1583年、政貞の奮闘むなしく、北条家の力なく佐竹氏に対抗する術がなく主君・氏治が佐竹氏に臣従したため、やむなくこれに従ったという。
その後余生を過ごし1592年に死去した。