ポイント
- 陸奥相馬家17代当主
- 関が原合戦の際に改易となった相馬家の改易撤回を成功させる
- 徳川秀忠の養女を正室として迎えた
名 前
- 相馬三胤(初名)→蜜胤→利胤
墓 所
- 同慶寺(福島県南相馬市)
所 属
官職・役職
- 官位:従四位下、大膳亮
1581年 | 0歳 | 相馬義胤の嫡男として誕生 | 1596年 | 15歳 | 従五位下・大膳亮に任命される | 1600年 | 19歳 | 関が原合戦が勃発 相馬家は中立を維持したため所領を没収される。 三胤は石田三成由来の「三」の字を改め蜜胤と名乗る。 蜜胤が交渉人となり所領を安堵された。 |
1601年 | 20歳 | 正室である蘆名義広の娘・江戸崎御前が亡くなる | 1602年 | 21歳 | 徳川秀忠の養女という形式で、旗本の岡田元次の次女を継室に迎える 利胤(としたね)と名を改める |
1611年 | 30歳 | 居城を小高城から相馬中村城へ移す | 1615年 | 34歳 | 大坂夏の陣では、徳川秀忠軍の先鋒として奮戦する | 1525年 | 45歳 | 死 没 |
相馬家17代当主。義胤の子。関ヶ原合戦では相馬家は中立を保ち、このため一時、所領を失った。のちに許され本領を回復、秀忠の養女を娶る厚遇を受けた。また、相馬駒焼の基礎を作り出すなど、政治的に優れた名君ぶりを発揮した。
父・義胤が佐竹義宣と共に石田三成と親密な関係であったため、三成を烏帽子親として「相馬三胤(みつたね)」と名乗った。
その後、三胤は蘆名盛重の娘(蘆名盛隆の娘)江戸崎御前を妻に迎えた。
伊達政宗によって会津黒川城を追われた蘆名盛重が移りすんだのが「江戸崎」であったため、江戸崎御前と呼ばれた。
関ヶ原の戦いでは父の義胤が佐竹家とともに中立を決め込んだため、徳川家康によって所領を没収され、改易の危機に立たされた。このとき秋田に転封された佐竹義宣から所領を裾分けするという誘いを受け、義胤は秋田に移るもやむを得ずという結論に達したが、三胤は義胤の前に進み出て
「自分は尊慮の他に存奉る。当家代々将軍に扈従し、今飢寒を凌がんとて佐竹の旗下になり、苗字を汚さんは更に詮無し。自ら江戸へ出府し、両大君の御念を鎮め、少分の恩沢にも預かり、旗本に苗字を残すにおいては本望、左なくば家を滅するか罪科を受くべし」
と訴えた。義胤はこの案を採用し、三胤は石田三成由来の「三」の字を改め蜜胤(読みは同じく「みつたね」)と名前を変え、わずかの家臣を伴い、直訴のため自ら江戸に赴いた。幕閣に取り入る縁故は全くなかったが、義胤の旧縁を頼りに大身旗本の島田重次を頼り、本多正信のとりなしを得ることに成功した。家康・秀忠への正信の説得もあり、蜜胤は所領を安堵された。
1601年、正室である江戸崎御前が亡くなると、1602年に徳川秀忠の養女という形式で、旗本の岡田元次の次女を継室に迎えた。
蜜胤は将軍の代理として婚礼の席に赴いた、幕府の実力者の土井利勝に頼み、土井家の通字「利」の偏諱をもらって利胤(としたね)と名を改めた。12月18日、従四位下に昇叙し、大膳亮如元。
1611年、居城を小高城から相馬中村城へ移す。
1615年の大坂夏の陣では、徳川秀忠軍の先鋒として奮戦している。
その後は中村の城下町を京のような碁盤の目のような町に改造したり(現在の相馬市の基礎となった)、家臣に陶芸を学ばせて相馬駒焼の基礎を作り出すなど、政治的に優れた名君ぶりを発揮した。
1625年9月10日、父に先立って45歳で死去した。墓地は福島県南相馬市の同慶寺にある。