ポイント
- 輝宗、政宗に仕えた
- 「也」の字を前立にした兜を着用していた
- 伊達家の主要な戦で戦功をあげる
- 水沢城1万石5000石を領す
目 次
官職・役職
- 官位:右衛門大輔、若狭守
略 歴
1553年 | 1歳 | 白石宗利の子として誕生 | 1584年 | 32歳 | 輝宗・政宗父子に従って相馬氏との戦いに従軍 | 1585年 | 33歳 | 大内定綱の小手森城を攻め、人取橋の戦いで戦功をあげる | 1586年 | 34歳 | 宮森城主となる | 1591年 | 39歳 | 胆沢郡水沢城主15,000石の所領を与えられる | 1593年 | 41歳 | 文禄・慶長の役に参加し、朝鮮へ渡海した | 1599年 | 47歳 | 死 没 |
概 要
輝宗、政宗に仕えた伊達家の猛将。相馬氏との戦いや人取橋の戦い、摺上原の戦いなど、政宗の奥州制覇における主要な戦で戦功をあげる。葛西大崎一揆鎮圧後、政宗から1万5000石与えられ水沢城主となった。
白石氏とは
白石氏は藤原鎌足の子孫・刈田経元を祖し、源義家に従い後三年の役に出陣しその戦功をから奥州刈田・伊具郡を与えられ、「刈田氏」を名乗ったのが始まりとされている。
その後、奥州合戦が起こると、5代刈田秀信は藤原泰衡へ加担したため源頼朝の軍に敗れて戦死し、滅亡の危機にあった。
しかし、秀信の弟・秀長がが源頼朝へ加担していた伊達氏初代・伊達朝宗に従い奮戦、白石の地を拝領し一族の存続にに成功した。
改めて「白石氏」を名乗ることになった。
誕生と家督相続
1553年に伊達氏家臣・白石宗利の長男として生まれる。幼名は老後丸。
1570年頃に伊達家当主・伊達輝宗は父・晴宗の一派を排除するため、中野宗時を討たんと出陣にを決意した。
この時、宗利(宗実の父)は小梁川盛宗らとともに宗時一行の逃亡を助けてしまう。(自領の通過を黙認してしまう)
輝宗はこれに激怒したが、両人は赦免を乞いなんとか処罰を免れたという。
その後、1575年に家督を継いで輝宗の寄騎となった。
政宗の家督相続
1584年に伊達輝宗が隠居し伊達政宗が家督相続する。
しかし、若年だった政宗の家督相続に不満をもつ一部の家臣が存在した。
これを懸念した宗実は当時9歳であった娘(のちの心月院)を男装させ政宗の側に仕えさせた。(人質)
これに伊達氏家中は白石殿ほどの男が自らの子を人質に出されたとあってはと政宗の家督相続にに恭順の意を表したという。
この件で政宗の信頼を得た宗実は伊達軍の主力として各地に従軍し、抜群の功を立てていくことになる。
伊達氏の猛将として
宗実は伊達氏の中でも猛将として名を轟かせている。
1584年の駒ヶ峯城攻めでは敗軍の殿を勤め、相馬軍の追撃を退けて見事に退却戦を完遂している。
さらに、1585年の大内定綱を攻め(小手森城の合戦)では、小瀬川方面に布陣して大内軍を打ち破る等の活躍を見せている。
人取橋の戦い
輝宗が二本松家によって殺害されて間もなく1586年に南奥連合軍が挙兵し人取橋の合戦が起こる。
宗実は玉井城にあって軍勢はわずか兵500、しかしながら戦況が悪化するにつれ荒井・五百川方面へと転戦し、ついには最前線に躍り出て連合軍と真っ向から対峙し激闘を繰り広げた。
白石勢は成実決死の突撃に続いて連合軍を何度も押し返し、本陣を無事本宮城まで退却させる武功を挙げた。
その後、政宗は輝宗を殺害した、二本松氏討伐に出陣する。もはや戦力のない二本松氏は相馬義胤に和睦仲介を依頼。宗実はこれを政宗へ取り次ぎ二本松城は無血開城した。
この戦功もあり宗実は、定綱の旧領・安達郡塩松33邑を加増され、先祖伝来の白石城から移って宮森城主となった。
摺上原の戦い
1589年、伊達氏と蘆名氏が南奥の覇権を巡って争った「摺上原の戦い」が勃発すると、宗実もこれに参陣し三番備を担当。人馬が巻き上げる砂塵を向かい風が容赦なく叩き付けてくる不利な状況に、一度は敗走しかかるものの風向きが変わって以降は立て直し大勝へと繋げた。 同年須賀川攻めにおいては八幡崎口の第二陣についている。水沢城主
1590年に豊臣秀吉の奥州仕置では、葛西・大崎一揆の平定に従事し、宮沢城に入って抑えを担うなどして活躍した。 しかし、政宗が一揆への関与を疑われ岩出山転封を言い渡されると。宗実の所領であった安達郡宮森は没収され、わりに胆沢郡水沢城主を任され15,000石の所領を与えられた。死 没
1593年、豊臣氏による文禄・慶長の役に参加し、朝鮮へ渡海した。その後、1599年、朝鮮からの帰国直後、山城国の伏見において死去した。享年47(一説には55とも)。
宗実には男子がなかったため、娘婿の梁川宗直(梁川宗清の長男)が、白石氏の家督を継いだ。