最上家臣 慶長出羽合戦では直江兼続の
軍を撃退するなど最上軍の勝利に大きく貢献した
志村 光安
志村光安
ポイント
- 最上家臣。外交上手で織田信長との外交を任される
- 長出羽合戦で活躍!直江兼続を撃退する
誕生・死没
- 誕生:不 明
- 死没:1609年? 1611年?
- 享年:?歳
官職・役職
- 伊豆守
親 族
- 父 : 志村光清
- 子 : 志村光惟
略 歴
1577年… | 織田信長に使者として派遣され、交渉にて最上家の系図を示し、義光の出羽守叙任が許可される。 | 1600年… | 慶長出羽合戦では鮭延秀綱の支援も受け、直江兼続の大軍に抵抗し、城を守りきり勝利に貢献する。 |
1603年… | 東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城を鶴ヶ岡城と改めたる(逸話有り) |
1609年… | もしくは1611年に死去した |
生い立ち
最上家譜代の家臣・志村光清の子として誕生し、最上義光に仕える。
最上家の知将としての活躍
志村光安は最上家の知将また弁舌上手としていられている。これは、最上家の隣国の国人・白鳥長久が織田信長に使を出し名馬白雲雀を献上して、出羽守を得ようとする動きを見せると、これに危機感をいだいた最上義光は志村光安を名代として織田信長に使者として派遣した。志村光安は交渉にて最上家の系図を示し、義光こそ本当の出羽守護であると訴えた。これに納得した信長は義光の出羽守叙任が許可したとされる。
この事がきっかけで志村光安は「性剛にして、口才人を挫き、いかなる強敵も彼の前には降った」といわれるようになった。
また、、白鳥長久、謀殺の計画を練ったのも志村光安と言われており、最上義光からの信頼が厚かった事がうかがえる。
慶長出羽合戦
1600年、1万石の知行を有する長谷堂城の城主となっていた志村光安は、慶長出羽合戦では長谷堂城の守備を担当した。上杉家は約2万の大軍を率いて最上領に侵攻してきた。
山形城の防衛ラインにおいて最重要拠点であった長谷堂城を重臣の鮭延秀綱と共に守り、寡兵で直江兼続の軍勢を翻弄する鮭延秀綱の支援を受けながら、伏兵などを駆使して直江兼続の軍勢に抵抗し、直江軍の猛攻に耐えて長谷堂城を守りきった。
また、撤退する上杉軍の追撃戦や、上杉軍の志駄義秀が籠もる東禅寺城(酒田城)攻撃にも加わり、その結果、亀ヶ崎城と改称した東禅寺城3万石を賜った。また、庄内における寺社の復興(1608年羽黒山五重塔の修造等)にも努めた。
逸 話
酒田に巨大亀が上陸し、これを主君・義光に報告した。これを吉兆として東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城を鶴ヶ岡城と改めたという逸話が残る。
没年は慶長14年(1609年)とも、慶長16年(1611年)ともされる。