概 要
里見氏8代当主。里見義頼の子。小田原征伐で秀吉の怒りに触れ、上総・下総の所領を没収され安房4万石のみ所領安堵された。館山城を築城し居城とした。
ポイント
- 里見家8代目当主
- 上総・下総の所領を没収され安房4万石のみ所領安堵された
- 館山城を築城し居城とした
- 織田信長の姪を夫人とした
- 関が原の戦いでは東軍につき常陸国鹿島郡3万石余を加増された
誕生・死没
- 誕生:1573年
- 死没:1587年
- 享年:44歳
- 墓所:千葉県館山市上真倉の慈恩院
同い年の武将
名 前
- 千寿丸(幼名)
- 太郎(通称)
官 位・役 職
- 官位:従四位下安房守、侍従
所 属
略 歴
1573年 | 0歳 | 里見義頼の長男として誕生 |
1587年 | 15歳 | 父・義頼死没 家督を相続する |
1588年 | 15歳 | 豊臣秀吉に通じ、安房国・上総国両国および下総国の一部を安堵される |
1590年 | 17歳 | 小田原征伐勃発 小田原征伐で秀吉を怒らせ上総・下総の所領を没収され、安房1ヶ国に減封された。 |
1591年 | 18歳 | 居城を岡本城から館山城へ移転をする |
1592年 | 19歳 | 文禄の役に参陣 |
1600年 | 27歳 | 関が原合戦勃発 東軍に属し宇都宮城の守備を担当する |
1603年 | 30歳 | 死 没 |
出生と家督相続
☆ 里見家7代当主・里見義頼の嫡男として誕生
1573年、安房国の大名である里見家7代当主・里見義頼の長男として誕生した。
1587年、義康がまだ15歳のころ、父・義頼の急死により義康が里見家の家督を相続する。
その翌年の1588年11月に父に引き続いて、増田長盛の取次のもとで豊臣秀吉から、安房国・上総国両国および下総国の一部を安堵された。
小田原征伐
★ 小田原征伐で秀吉の怒りに触れ総・下総の所領を没収され、安房4万石に減封された。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が行われると義康も豊臣軍としてこれに参陣した。しかし、この戦い最中の義康は秀吉の怒りに触れ上総・下総の所領を没収され、安房4万石に減封されている。
☆ 減封の理由
通説では「遅参」とされていたが、近年の研究では里見氏が庇護していた小弓公方・足利義明の遺児・頼淳を擁立して、北条領である三浦へ渡海進軍し、鎌倉公方家再興を主張し独自の禁制を発したことが、秀吉が発令した「惣無事令違反(私戦を禁じた法案)」に問われたと考えられている。
徳川家との関係
★ 小田原征伐での減封の仲介をした徳川家と接近する
小田原征伐での不祥事から秀吉により処罰を受けた義康。この件を仲介したのは徳川家康であった。徳川家康は義康に里見家と徳川家は新田氏を祖とする同族であり親戚だと思っているといった内容「殊一性之儀二候間」の起請文を送っている。
※この古文書は滝川恒昭により偽文書の可能性が指摘されている。
小田原征伐の戦い後
★ 侍従、安房守に任命されたほか、織田信長の姪を正室とした
小田原征伐後は上洛し、従四位下に叙せられ、侍従、安房守に任ぜられ。また織田信長の姪を正室として迎え、居城を岡本城から館山城へ移した。
1592年の文禄の役では、家康に随行して渡海はせずに肥前名護屋城に滞陣した
関が原の戦い
☆ 東軍に属し宇都宮城の守備を担当し上杉景勝の南下に備えた
1600年、「関ヶ原の戦い」が起こると、義康は徳川家康に従い会津征伐に向かうが、関ヶ原へ向かう軍には組織されず、結城秀康の配下の軍として宇都宮城の守備を担当し上杉景勝の南下を阻んだ。
戦後、論功行賞により常陸国鹿島郡3万石余を加増され計12万数千石を領することとなったが、1603年11月16日に死去した。家督は10歳の嫡男・梅鶴丸(のちの忠義)が相続した。