ポイント
- 佐竹家17代当主、母は小田家の女
- 常陸統一を目指し江戸氏、小田氏らと争う
- 上杉憲政からの「関東管領」の誘いを断る
誕生・死没
- 誕生:1531年
- 死没:1565年
- 享年:35歳
官職・役職
- 官位:右京大夫
親 族
略 歴
1531年… | 佐竹義篤の次男として誕生 | 1545年… | 父・義篤が死去し家督を継ぐ |
1557年… | 宇都宮氏の内紛に介入(宇都宮広綱の宇都宮城への復帰に協力) |
1558年… | 岩城家が領内に侵攻してくるがこれを撃退し、佐竹氏に有利な和睦を結ぶ |
1560年… | 結城領に攻め込み勝利する |
1562年… | 上杉謙信と同盟を結び小山領に攻め込む 家督を嫡男・義重に譲る |
1563年… | 那須家と戦い勝利する |
1564年… | 小田氏の攻撃を受けるがこれを撃退、逆に小田城を奪取する |
1565年… | 死 没 |
概 要
常陸佐竹氏代17代当主。常陸統一を目指して江戸氏、小田氏らと争った。
河越夜戦で北条氏に惨敗した山内上杉憲政に、関東管領職と上杉家の家名を譲るのを条件に保護を求められたが、清和源氏末裔の身で上杉家を継ぐことに難色をしめし辞退したという。
家督相続
1531年8月23日、第16代当主・佐竹義篤の次男として生まれる。異母長兄の義友が庶子のために、後継者に定められた。
天文14年(1545年)、父の死により家督を相続して第17代当主となる。この頃の佐竹氏は内紛を収拾して、常陸北部を支配する戦国大名に成長していた。このため、常陸統一に向けて勢力拡大に励んだ。
江戸氏攻略
義昭は常陸統一の第一歩として、江戸氏の攻略に力を注ぎます。元々江戸氏は父・義篤の代では佐竹家の従属関係にありましたが、義篤が病死し、義昭が家督を継ぐとこれに反抗します。
義昭は同じ常陸国の小田氏と共同して、江戸氏を攻めます。序盤こそ戸村合戦で敗北するなど不利な状況でしたが、1551年には降伏させるまでに至ります。
宇都宮家の内紛
1557年になると、隣国の宇都宮家で内紛が起こります、義昭はこれに介入し宇都宮広綱の宇都宮城への復帰に協力し、のち娘を嫁がせている。
南奥州侵攻
1558年になると、陸奥国の岩城重隆が佐竹領内に侵攻してくるが、これを小里で破り、婚姻関係を理由に有利な和睦を結んだ。
1560年には結城晴朝を攻めて勝利し、さらに白河晴綱の寺山城を攻めて勝利し、1563年には那須家と周辺の大名達を従属化していき勢力を拡大していきます。
常陸統一へ
1562年には関東管領・上杉謙信と同盟を結んで小山城を攻めた。この年に長男の義重に家督を譲って隠居し、常陸府中城に移ったが、なおも実権は握り続けた。(若くして隠居した理由は不明で、35歳で死去していることから、病弱だったのではないかと思われる。)
1562年には上杉輝虎(上杉謙信)と同盟を結んで小山城を攻めた。この年に長男の義重に家督を譲って隠居し、常陸府中城に移ったが、なおも実権は握り続けた。
1564年には北条氏康や結城晴朝と手を結んだ小田氏治の攻撃を受けるが、義昭は上杉謙信・宇都宮広綱と手を結んで逆に小田領に侵攻して小田城を奪取し、氏治を土浦城にまで追いつめた(小田城の戦い)。また、継室の実家である大掾氏に乗り込んで、事実上同氏を傘下に収めた。
1565年11月3日、常陸統一を目前にして突如として急死した。享年35。このため、佐竹氏の常陸統一は後一歩のところでならなかった。