ポイント
- 佐野家13代当主
- 家臣・赤見伊賀守の乱を鎮圧
- 連歌師宗長を佐野に迎え、連歌会を催す
誕生・死没
- 誕生:1488年
- 死没:1560年
- 享年:72歳
官職・役職
- 官位:越前守
親 族
略 歴
1488年… | 佐野秀綱の嫡男として誕生する | 1527年… | 家督を相続する |
1509年… | 連歌師宗長を佐野に迎え、連歌会を催す |
1559年… | 家臣・赤見伊賀守が謀反を起こすがこれを鎮圧する |
1560年… | 死 没 |
概 要
佐野家13代当主。秀綱の嫡男。修理亮と称す。1559年、家臣・赤見伊賀守が主家に背いたため、伊賀守の居城・赤見城を攻撃し、伊賀守を常陸に追った。また、関東を旅していた連歌師宗長を佐野に迎え、連歌会を催している
連歌師宗長を佐野に迎えた連歌会
1509年、秦綱は関東を旅していた連歌師・宗長を佐野に迎え、連歌会を催したという記録が残っています。
宗長は6日間滞在した後、北方へと旅を続けていますが、その帰路でも佐野に再び立ち寄っています。ここでは7日間滞在し、「佐野の舟橋」の跡を見るため葛生のふる恋路(現在の古越路)などを訪れた後、今度は越前守亭にて連歌を行っています。このことからも、佐野家の武将たちが宗長との交流を歓迎しており、上方の文化にも親しんでいた様子が伺えます。
宗長とは駿河国出身の連歌師であり、今川家の側近として活躍していた人物である。幕府とも通じており、今川氏親が遠江守護に任じられたのは宗長が関与してた可能性が高いといわれている。
赤見伊賀守の謀反
1559年、佐野家家臣・赤見伊賀守が秦綱に対して謀反を起こした。秦綱つは直ぐに赤見城を攻撃し伊賀守を常陸に追いやりました。 赤見城は佐野氏の本拠である唐沢山城と、足利長尾氏の足利城の中間地点にあることから佐野領防衛の重要地点でした。