東三河の有力豪族。桶狭間合戦後、今川家から徳川家へ転属する
西郷 正勝
概 要
三河国の名家。当初は今川家臣であったが、桶狭間の戦いの後に家康の調略を受けて徳川家に転属する。
三河国の東に五本松城を築城して三河西郷氏の本城とするが。今川軍に攻められて戦死する。
家康の側室・西郷局は正勝の外孫である。
ポイント
- 東三河の有力豪族
- 桶狭間の合戦後に今川家から徳川家に転属する
- 五本松城(同県同市石巻中山町、西郷校区)を築城して三河西郷氏の本城とする
- 今川軍の攻撃にあい自害する
誕生・死没
- 誕生:?年
- 死没:1562年
- 享年:?歳
名 前
- 孫三郎、弾正左衛門(通称) <
略 歴
1560年 | ?歳 | 桶狭間の戦い 今川家から松平(徳川家)家に転属 |
1561年 | ?歳 | 五本松城を築城して三河西郷氏の本城とする |
1562年 | ?歳 | 五本松城を今川軍に攻めれて自害する |
西郷家とは
西「郷」の由来は地方行政の最下位の単位として「郷(里)」が由来
日本の令制国(11世紀中後期から12世紀初期)の中に役所が置かれていた区画に郡、郷、保、院、条、別名などといった国が支配する土地と、貴族や寺社の支配下にある土地が存在した。
この状況下で全国各地に国衙領(国が支配する領地)として「西郷」が数多く成立した。郷とは里という意味で地方行政の最下位の単位である。
この「西郷」を管理責任者として支配し、名字の地とした武士が、各地の西郷氏の由来であり三河西郷氏もこれに由来する。
三河西郷氏の誕生
南北朝時代、仁木義長が三河国の守護になったため、土岐頼忠の子の西郷頼音が三河守護代に任じられたのが始まりとされている。
室町時代には同国額田郡南部(現在の愛知県岡崎市・幸田町)を領地としており、守護代でなくなった後も三河に残り、有力な国人となった。しかし、次第に松平氏に圧迫されその姻戚となり屈服した。
ちなみに家康の生誕地となっている岡崎城も西郷氏によって築城されている。
江戸時代以降の西郷家
1590年の徳川氏の関東移封の際、下総国千葉郡生実(現在の千葉県千葉市中央区)に5000石を与えられた。その後、5000石を加増されて安房国東条藩1万石(現在の同県鴨川市東町)を立藩、大名に列した。
その後、下野国上田藩1万石(現在の栃木県下都賀郡壬生町)に転封となった後に5000石を収公され、子孫は旗本として家名をつないだ。
その他、庶流は徳川御三家や井伊氏、戸田松平家、会津松平家などに仕えている。とくに会津藩(現在の福島県会津若松市)では家老をつとめ、幕末に西郷頼母を出した。
誕生と幼少期
松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として誕生
1527年、忠次は徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。
元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕えた。
家康第一の家臣
家康の人質時代
1549年、家康が今川義元への人質として駿府に赴く時、竹千代に従う家臣の中では酒井正親に次ぐ最高齢者(23歳)として同行した。
家康の配下として仕え、養育係も務めたといわれている。
東三河の旗頭
1560年5月の桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、1563年の三河一向一揆では、酒井忠尚を始め酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康に従った。
1564年には吉田城攻めで先鋒を務め、守将の小原鎮実を撤退させ、無血開城によって城を落とす戦功を立て、戦後、吉田城主となっている。これにより、忠次は東三河の旗頭として三河東部の諸松平家・国人を統制する役割を与えられる(西三河は石川家成)。
武田家の外交官
1569年末に甲斐国の武田信玄は今川氏真の領国駿河への侵攻を行い(駿河侵攻)、徳川氏は当初武田氏と同盟し今川領国の割譲を協定していたが、忠次は武田方との交渉を担当している。
姉川の戦い
の姉川の戦いでは姉川沿いに陣取り、小笠原信興の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切った。
武田家の戦い
三方ヶ原の戦い
1573年の三方ヶ原の戦いでは右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊と激突し、打ち破っている。
長篠の戦い
長篠の戦いでは分遣隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行、鳶巣山砦を陥落させて長篠城を救出した上に勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取り、有海村の武田支軍をも討つ大功を挙げてた。
鳶ヶ巣山砦奇襲の作戦は、軍議で忠次が発案したものであったが、信長からは頭ごなしに罵倒され、忠次の発案は却下された。
しかし、軍議が終わって諸将が退出した後、信長は忠次を密かに呼び出し、情報漏洩の恐れがあったため、わざと却下し、改めて作戦の指揮は忠次に任せ作成を遂行させた命じた。
信康切腹事件
信康切腹事件
1579年、家康の嫡子・松平信康が築山御前(家康の正室、信康の母)と共謀して武田方に内通しているとする書状を徳姫(信康の正室、信長の長女)が忠次を持参役として父・信長に送った。
忠次は織田信長からの詰問を受けたとき、この際、忠次は信康を十分に弁護できず、信康の切腹を防げなかったと言われる。もっとも、この信康切腹の通説に関しては不自然な点や疑問点も多く、信康の切腹は家康の意思であるという説が近年では有力である。
常山紀談での記述
信康の切腹事件は信長に「信康が武田氏と通じて信長を殺そうとしている。この事は忠次がよく知っている」と告げられたことが発端であるとされている。信長は信康の妻徳姫から報告された信康の悪事について忠次に問いただしたが、忠次はこれを認めた。これについては、以前忠次が信康の侍女を側室としたことから、信康の恨みを買っていたとされている。信康の守役平岩親吉は、自分が切腹してなんとか信康の助命を願い出るよう述べたが、家康は忠次がここまで言ってはなかなか聞き入れられないだろうと止めている。後に忠次は目を患って引きこもっていたが、しばらくしてから家康に拝謁し、「年老候ひぬ子を不便にさせ給え(私は年老いました。子供をどうかかわいがってください)」と言上した。家康は「信康生きて有るなら斯許心を労すまじきに、汝も子の不便なることを知りたるが怪しき(信康が生きていればこのような心労もなかったであろうに、お前も子がかわいいということを知っているのは不思議なことだ)」と述べ、忠次は言葉もなく退出したという
晩 年
本能寺の変後
1582年、本能寺の変が勃発すると、家康は信長横死後に空白地帯となった武田遺領の甲斐・信濃の掌握をはかり(天正壬午の乱)、忠次を信濃へ派遣して信濃国衆の懐柔を図る。
忠次は奥三河・伊那経由で信濃へ侵攻するが、諏訪頼忠や小笠原貞慶らの離反により失敗する。1584年の小牧・長久手の戦いでは羽黒の戦いで森長可を敗走させるなど、戦功をあげた。
家康第一の重臣
1585年に同じく家康の宿老であった石川数正が出奔してからは家康第一の重臣とされ、1586年には、家中では最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されている。
しかし、1588年には長男の家次に家督を譲って隠居する。隠居の要因は加齢もさることながら、眼病を患い、殆ど目が見えなかったからだともいわれる。
死 去
隠居してからの忠次、豊臣秀吉からは与えられた京都桜井の屋敷に住んでおりこの頃、入道して「一智」と号したと一般的に伝わっている。 そして1596年10月28日、京都桜井屋敷で死去した。享年70。墓所は知恩院の塔頭・先求院。墓は知恩院山腹の墓地内にある。
逸 話
正月の門松の由来
1573年正月、武田家から「松枯れて竹たぐひなき明日かな(松平は枯れて武田は類ないようになる将来だ)」と詠んだ句が送られてきた。
家康や徳川家臣団は激怒したが、忠次はその句の要所に濁点を入れ替えて「松枯れで竹だくびなき明日かな(松平は枯れず武田は首がない将来だ)」と読み返したという。このことから、正月には門松の竹を斜めに切り落とすのが習慣になったという。
愛 槍
忠次の愛槍は「甕通槍」といい、甕もろとも突き抜けて敵を倒したという逸話がある。
猪切り
酒井忠次の愛刀で七男の松平甚三郎(庄内藩主席家老)の家系に伝わる猪切(いのししぎり)は、村正の高弟である正真の作である(銘は「正真」の二字)[2]。若かりし頃の家康が伴を連れて狩りに出た時、忠次がこの千子正真で猪を斬ったので、茎に「猪切」の金象嵌を入れたのだという
海老すくいの踊り
長篠の戦いを前にし、弱気な家臣達を前に忠次は突然得意の「海老すくい」という踊りを踊り始めた、重臣であるにもかかわらず配下達のの前で踊りを見せ、大いに盛り上げたという。
この踊りは1586年、家康が北条氏政と同盟を結ぶために伊豆三島に赴いた際の酒宴でも披露している。
徳川四天王としての活躍
武田氏滅亡後に家康は、井伊直政を取り立てるために大半の武田家臣を付そうとした。忠次は直政に甲州侍を付ければなおますます励むであろうと賛成した。しかし榊原康政は激怒し、直政と刺し違えるとまで言い出した。これを聞いた忠次は「直政に甲州侍を付したのは主君である。軽率な行動をすれば、その方の一門を串刺しにする」と康政を叱りつけた。康政はこの言葉に服したという