上杉、永井家に仕えた智勇兼備の武将
佐川田 昌俊
概 要
下野国出身の武将。上杉家に仕えた後、関ケ原の戦いで西軍側につき「大津城の戦い」で先陣をきって入城する。その後は浪人になった後に永井家に仕えた。「淀の水車」は彼の発案だという。
ポイント
- 下野国の出身で始めは上杉景勝に仕えた
- 関ケ原合戦後は浪人した後に永井直勝に仕える
- 智勇兼備の名士で集外三十六歌仙の一人
誕生・死没
- 誕生:1579年
- 死没:1643年
- 享年:??歳
- 墓所:一休寺
名 前
- 佐河田昌俊、喜六、
- 桃山・壷斎・黙々翁
- 臥輪・不二山人
- 黙々(号)
同い年の人物
- 奈良利輝、南条元忠、石川仲光、入来院重高、畠山義真、羽仁元直、上杉憲俊、大河内正勝、岡本義保、織田昌澄、柏木源藤、春日局、烏丸光広、川勝広綱 佐川田昌俊、柴田勝重、須田長義、藤堂高吉、徳川秀忠、豊島信満、豊臣秀保、別所吉治、本多康紀、松下重綱、松平家治、毛利秀元、茂庭良元、柳生利厳 山家公頼
親 族
養父 | : | 木戸玄斎 |
子 | : | 俊輔 |
略 歴
1579年 | 0歳 | 下野国で誕生 |
1600年 | 21歳 | 関ケ原の戦い 西軍方として「大津城の戦い」に参陣 |
1616年 | 37歳 | 江戸に移る |
1633年 | 54歳 | 藩の転封に伴い山城淀に移る |
1638年 | 60歳 | 家督を嫡男・俊輔に譲り隠居 |
1643年 | 64歳 | 南部家臣となる |
出 自
昌俊は1579年に下野国で誕生した。
始めは上杉景勝に仕え、同じく上杉家の家臣である木戸玄斎の養子となる。
その後、時期は不明だが上杉家を離れている
関ケ原の戦い(大津城の戦い)
関ケ原の戦いでは西軍に属し、関ケ原の戦いの前哨戦である「大津城の戦い」にまっさきに敵の城に入り負傷している。
その後、浪人となるが徳川家の家臣である永井直勝に仕え、大阪の陣では永井軍の大将として江戸に移った
江戸時代
家老として藩政の主導をする
家老として藩政の主導をする
主君・永井直勝の死後は直勝の嫡男・尚政に仕え、1633年には藩の転封に伴い山城淀に移動した。
藩の中で昌俊は家老として藩政を主導し、淀場内に給水する「淀の水車」などを考えた。
また、藩が財政難で苦しんでいたとき、尚政に無断で金蔵を開いて救済を行なって助けたという逸話がある。
病のため、家督を嫡男に譲り隠居する
1638年、昌俊は病のため家督を嫡男・俊輔に譲り、洛南一休寺の傍らに庵を構えて「黙々」と号し隠居した。
そしてその6年後の1643年死去した。
その後、昌俊の子孫は永井家の重大家老として存続した。
人物
智勇兼備の名士
智勇兼備の名士
茶道を小堀遠州に学び、連歌は里村昌琢、書は松花堂昭乗、漢学は林羅山に、歌は飛鳥井雅庸・近衛信尋歌道に学んだ。
連歌名人
連歌については連歌師・里村昌琢に「西におのれ(昌琢)あり、東に昌俊あり」と答えたという逸話がある。
一休寺の庭園
石川丈山、松花堂昭乗と共に一休寺方丈の庭園の作庭に携わったとの伝えもある。
歌人
昌俊はその才能から集外三十六歌仙の一人に選ばれている。
吉野山花咲くころの朝な朝な心にかかる峰の白雲