那須七騎の筆頭的人物として家中最大の勢力を築き主家を支える

大関 高増なす すけはる

大田原資清 肖像画

  ポイント

  • 上那須家のお家騒動の際にも活躍
  • 大関宗増に嫉まれ讒言を受けて失脚
  • 復帰後、大関増次に奇襲を掛け敗死や那須家当主に自分の娘を娶わせるなどして家中随一の勢力を構築

誕生・死没

  • 誕生:1486年?
  • 死没:1560年
  • 享年:74歳

名 前

  • 助九朗(別名)

所 属

官職・役職

  • 官位: 備前守

親 族

略 歴

1486年…大俵胤清の子として誕生
1514年…上那須家のお家騒動の際にも活躍し
1518年…大関宗増の讒言を受けて失脚、出家する
1542年…那須家に復帰
大関宗増の嫡男・増次に奇襲を掛け敗死させ大関家を支配する
福原家に次男を養嗣子として送り込む
当主・政資に自分の娘を娶わせる
1545年…水口城から大田原城へと居城を移す
姓を「大俵氏」から「大田原氏」へと改める
1551年…資胤の家督相続を図って、那須政資の子・高資と対立するが高資が死去すると外孫の資胤を当主に据え権力をふるった
1560年…死 去

概 要

清那須七党の一。大田原城主。黒羽城主・大関増次を討って子・高増に大関家を継がせたり、娘を主君・政資の側室とするなど、那須家中で最大の勢力を築いた。

上那須家のお家騒動 1514年、那須氏15代当主・那須資親の死後、資親の実子・山田資久と養子・那須資永の間で家督争いが生じる。
資清は父・胤清と共に資久を支持するが、内紛の最中に資久が資永に殺害されて上那須家が断絶、資清は那須資房らと共に資永を攻め自刃に追い込んだ。
資清はこの争いで活躍し、資房からは偏諱を受けるほど信任された。

失 脚

優れていた智勇を備えていた資清はまたたく間に出世した。しかし、その勢いは周囲に危険視され、1518年、同僚の大関宗増の讒言を受けて失脚、出家した。
僧籍にあった兄・麟道の縁を頼って越前国の曹洞宗大本山永平寺に潜んだ。越前の朝倉氏の保護を受けたとも伝わる。

那須家中で最大の勢力を築いく

1542年、下野国那須に復帰(朝倉家の力?)すると仇である大関宗増の嫡男・増次に奇襲を掛け敗死させ、自身の長男・高増を大関氏へ養嗣子として送り込み大関家を支配。
さらに福原氏にも次男・資孝を養嗣子として送り込むと、資清は那須七騎の内の大田原・大関・福原の三家を支配し、那須家中でも最有力の実力者となった。那須資房の子・政資に自分の娘を娶わせるなど、主家との繋がりも深めた。

1545年までに水口城から大田原城へと居城を移し、姓を「大俵氏」から「大田原氏」へと改めている。
また、同年には光真寺を開基し、下野塩谷の長興寺の三代目住職であった実兄・麟道和尚を迎えて300石(のち500石)という破格の寺領を与えて保護し、以後光真寺は大田原氏代々の菩提寺となった。

那須高資との対立

外孫である資胤の家督相続を図って、那須政資の子・高資と対立し、1551年、芳賀高定の調略に加担した千本資俊により高資が誘殺されると、資胤を当主に据え権力をふるった。

参考資料(引用元)