外交手腕に長け佐竹一族に継ぐ地位を得た側近

岡本 禅哲おかもと ぜんてつ

  ポイント

  • 佐竹家3代に仕えた側近
  • 外交術に長け足利義昭や細川幽斎と交流があった
  • 佐竹一族の次に権力があった

誕生・死没

  • 誕生:不 明
  • 死没:1583年
  • 享年:不 明

名 前

  • 又太郎(通称)
  • 梅江斎(別名)
  • 竹閑斎(別名)
  • 慕叟庵(別名)

所 属

親 族

岡本曾端
正室 小山秀綱の娘
岡本顕逸

概 要

僧侶で義篤・義昭・義重の3代に仕えた側近。外交術に長け、白河結城家や古河公方と文書を交わすなど、外交面で重要な役割を果たし、佐竹一門に次ぐ地位を得た。

岡本氏

岡本氏祖は藤原秀郷だといわれている。流れは小山氏と一緒。
元々岩城氏の家臣であったが、禅哲の祖父である岡本妙誉の代から佐竹氏に仕えるようになった。

佐竹氏での活躍

僧侶でありながら佐竹義篤・佐竹義昭・佐竹義重の三代に仕えた。娘を佐竹氏一族に嫁がせ佐竹家内では佐竹一族の次に権力を持ち、一門衆に準じて扱われた。

父の曾端と同様に佐竹氏の外交面で活躍し、あるときは主君に代わって公的文書を発給し、室町幕府十五代将軍・足利義昭や細川幽斎、足利公方、白河結城家とも文章を交わしていた。

和歌の達人としても知られるほど教養にも長けた。

逸話

「梅香」の由来

禅哲は、太田(常陸太田)在住のころから梅花を愛し、宅地に梅樹数十株を植え梅香斎と号していた。
そのため、佐竹氏が水戸城に入城すると禅哲もこの町に移り、梅樹を植えて楽しんだことから、「梅香」の町名が起こったといわれている。