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佐竹義宣の側近として大阪夏の陣で活躍
岡本 宣綱
ポイント
- 岡本顕逸の嫡男
- 外交術に長け佐竹家の外交面を担当
- 義重の三男・貞隆の岩城家入嗣に随行し、岩城家の執政を取り仕切った
誕生・死没
- 誕生:1583年
- 死没:1649年
- 享年:66歳
名 前
- 蔵人(通称)
- 如哲・如庵(号)
所 属
概 要
岡本顕逸の子。祖父・岡本禅哲の時代から岡本氏は僧籍にあったため剃髪するが、のちに主君・義宣の命により還俗し「宣綱」と名乗った。義宣の秋田移封に従い大坂の陣にも出陣して戦功を立てた。
僧侶から武士へ
祖父・岡本禅哲の時代から岡本氏は僧籍(僧侶)にあったため、はじめ宣綱も剃髪していたが、佐竹義宣の命を受けて武士へ転籍し義宣より「宣」の字を与えられて名前を「宣綱」と名乗った。
その後も義宣の側近として仕え、大坂の陣に従軍して功を挙げたという。
再び僧へ
1624年、義宣の命により、義宣の養子(義重の五男)で嫡男となった佐竹義直の教育係となったが、翌年の1625年3月にこれを病と称して辞任した。一説によると義直が仏像の彫刻や仏書に傾倒し、宣綱の言うことに従わなかったためといわれている。この時、宣綱は責任を取って短刀で自傷したとされている。その後、義直は廃嫡され、宣綱も1631年、再び僧籍に戻った。
1649年死没した。