信濃小笠原家当主。「応仁の乱」では西軍に属し戦う

小笠原 長朝おがさわら ながとも

概 要

信濃小笠原家当主。小笠原清宗の子。応仁の乱では西軍に与し、東軍方の伊那小笠原氏や諏訪大社上社と争う。

  ポイント

  • 信濃小笠原家当主
  • 小笠原清宗の子
  • 応仁の乱では西軍を支持する
  • 鈴岡小笠原家に敗れその養子となり和睦する

誕生・死没

  • 誕生:1443年
  • 死没:1501年
  • 享年:59歳

名 前

  • 豊若丸
  • 又次郎
  • 徹叟正源(法名)

官 位

  • 従五位下、従五位上、右馬助、信濃守、修理大夫

氏 族

親 族

小笠原清宗
武田信昌の娘
養 父 小笠原政秀
兄 弟 小笠原政秀、林光政
貞朝

略 歴

1443年 0歳   小笠原清宗の嫡男として誕生
1449年 6歳   元服し民部大輔、大膳大夫、信濃守に任じられる
1473年 30歳   9代将軍足利義尚就任後初の参内に供奉
1478年 35歳   父の死去し家督を相続する
1480年 37歳   穂高合戦で仁科盛直を破る
1481年 38歳   仁科氏が頼った諏訪氏に敗れる
1488年 45歳   鈴岡小笠原家の小笠原政秀に井川館を陥落させられる
1490年 47歳   小笠原政秀の養子となり鈴岡家と和睦
1492年 49歳   10代将軍足利義稙の命により六角高頼征討(長享・延徳の乱)に出兵
1493年 50歳   小笠原政秀が松尾小笠原家の小笠原定基に暗殺される
1501年 59歳   死去

出生と家督相続

信濃の戦国大名、府中小笠原家の当主・小笠原清宗の子として誕生

長朝は1443年に信濃の戦国大名、府中小笠原家の当主・小笠原清宗の嫡男として誕生する。
その後。6歳ぐらいで元服をし、民部大輔、大膳大夫、信濃守に任じられる。

父の死去に伴い家督を相続する

1478年、「応仁の乱」の最中、父・清宗が死去したため、長朝が府中小笠原家の家督を相続した。
家督を相続した長朝は父と同じ路線を引継ぎ「応仁の乱」では西軍を支持し、東軍方の松尾小笠原氏や諏訪大社上社と争った。

周辺祖国との戦い

諏訪氏との戦い

1480年、長朝は諏訪大社下社の金刺氏と結んで仁科盛直を穂高川で破るが(穂高合戦)、1481年には仁科氏が頼った諏訪氏に敗れている。

鈴岡小笠原家への降伏

鈴岡小笠原家に敗れ、小笠原政秀の養子に入ることで和睦する

1488年に父・清宗の頃から攻撃を受けていた鈴岡小笠原家の小笠原政秀に本拠・井川館を陥落させられ、更級郡牧之島城に逃れ所領は鈴岡小笠原家によって支配される事になった。
しかし筑摩郡の国衆が鈴岡家の府中支配を支持せず、1490年以後、信濃守護に補任された政秀の養子となることで和睦し筑摩郡は引き続き府中小笠原家が支配することになった。

松尾小笠原家によって政秀が暗殺され、以後松尾小笠原と対立関係になる

1492年には10代将軍足利義稙の命により六角高頼征討(長享・延徳の乱)に出兵。
翌1493年には養父・政秀が松尾家の小笠原定基に暗殺されると、以後松尾小笠原家と対立した。1501年に59歳で死去した

参考資料(引用元)