津軽家の軍師として津軽平定に貢献した

沼田 祐光ぬまた すけみつ

noimage

 ポイント

  • 上野沼田出身の沼田一族
  • 津軽為信の軍師として津軽地方平定に貢献する

誕生・死没

  • 誕生:不 明
  • 死没:1612年

名 前

  • 上野之助(通称)、面松斎(改名)

所 属

官職・役職

  • 官位:不 明

親 族

  •   父  :  沼田光兼(宗兼?)
  •  正 室 : 湊勘解由左衛門の娘
  •  兄 弟 : 麝香(光寿院、細川幽斎正室)(妹)
  •   子  : 兵庫助

概 要

上野国沼田の出身。武者修業のため全国を行脚していた際に、為信の器量を見込んで仕官、その軍師となる。為信の津軽統一に多大な功績を残した。

出 自

出自については諸説あり、主な説としては、上野沼田氏の一族にあたり源頼朝の時代より代々若狭国熊川を領有し、後に若狭武田氏に属したとされる。
父は永禄年間に熊川城を築城したが、永禄12年(1569年)に武田氏の被官・松宮玄蕃允に攻められ、沼田一族は近江国へ退出したといわれる。
ちなみに妹は細川藤孝の正室である。

津軽氏仕官の経緯

どのような経緯で津軽氏に仕官したかはっきり分かっていない。一説によると武者修業のため全国を行脚していた際に、為信の器量を見込んで仕官したとされている

謎に満ちた軍師として

軍師として津軽為信をサポートしており、1571年の石川城攻めや、1575年の大光寺城攻めに参加し津軽家の勢力拡大に貢献した。
また、陰陽道・易学・天文学に通じており弘前城築城時にはこれらの能力を生かし土地の吉凶を占なったとされている。
中央政界とのパイプ役を担っていたとも伝わるが、現時点での資料においては経歴・実績などは不詳とせざるを得ない。

最 期

その後、為信から500石を与えられたが、祐光はこれを辞退し子・兵庫助に与えるよう願い、祐光自身は隠居料100石を受けた。
そして1612年死没。青森県弘前市の誓願寺に、祐光以下、弘前藩士沼田氏代々の墓所が現存する。