ポイント
- 二本松家の分家・新城村尚の子
- 二本松義氏の早世により、二本松8代当主となる
- 蘆名家と田村家が争い時に、仲介を行う
- 田村・相馬から伊達・蘆名の傘下に移した
誕生・死没
- 誕生:不 明
- 死没:1580年
- 墓所: 香泉寺
名 前
- 新城尚国→二本松尚国→二本松義国
所 属
官職・役職
- 修理大夫
略 歴
1547年 | ? | 二本松家の当主・義氏が死没 跡継ぎとして二本松家に入り家督を継ぐ 天文の乱が終結 |
1551年 | ? | 結城晴綱と共に蘆名氏と田村氏の講和を仲介する |
1552年 | ? | 嫡男・義継誕生 |
1570年 | ? | 蘆名家から攻撃を受ける 伊達家から八丁目城主・堀越宗範が城ごと二本松家に寝返る |
1574年 | ? | 蘆名・伊達から攻撃を受け八丁目城を攻め落とされる 田村・相馬の傘下から伊達・蘆名の傘下に降った 家督を義継に譲る |
1574年 | ? | 蘆名・伊達から攻撃を受け八丁目城を攻め落とされる 田村・相馬の傘下から伊達・蘆名の傘下に降った 家督を義継に譲る |
1580年 | ? | 死 没 |
概 要
二本松家8代当主。分家である新城村尚の子であるが、二本松義氏の早世により、宗家の家督を継いだ。蘆名家と田村家が争った際には、講和の斡旋を行っているが後に伊達家の攻められ伊達傘下に降った。
二本松家(宗家)の家督相続
義国は二本松氏一門・新城村尚(第5代当主・二本松村国の弟)の子として誕生した。
1547年従兄弟で二本松7代当主・義氏が嗣子無くして死去すると、後継ぎとして迎えられた。
天文の乱後
義国が家督を継承してすぐ、伊達家の内乱「天文の乱」が終結した。
しかし、義国の隣国である蘆名・田村の争いは収まらず、二勢力に領地を挟まれている二本松氏もこれに巻き込まれる形となり、は結城晴綱と共に蘆名氏と田村氏の講和を仲介するなどを行った。
田村・相馬から蘆名・伊達家へ
1570年、当時田村・相馬方に属していた二本松家は蘆名家の攻撃を受けるがこれを退けた。
その年には伊達家から八丁目城主・堀越宗範が城ごと二本松家へ寝返るなどして、一時期勢力を拡大していった。
しかし1574年、伊達実元・蘆名盛興の攻撃を受け、実元に八丁目城を攻め落とされた。そのため二本松家は八丁目城を実元に明け渡し、伊達家を裏切った八丁目城主・宗範を追放することを条件に降伏、二本松氏は田村・相馬の傘下から伊達・蘆名の傘下に移った。
また、この頃に家督を嫡男の義継に譲ったと考えられる。
死 没
1580年に死去した。自身が開基した香泉寺に葬られ現在も香泉寺には義国の墓が所存している。
その香泉寺には、1808年に唐津藩(佐賀県唐津市)家老・二本松義廉(義国の孫義孝を祖とする庶流家・二本松氏第6代当主)によって寄進された義国の位牌が現存しており、2009年に、位牌を収納する厨子と併せて「畠山義国位牌・厨子」として二本松市より文化財指定を受けている。