那須氏19代当主 父や宇都宮氏と争うがこれを撃退し勢力を広げる

那須 高資なす たかすけ

  ポイント

  • 那須家19代当主で政資の嫡男
  • 永正の乱の方針をめぐり父・政資と対立
  • 政資と結んだ宇都宮尚綱を討ち取る
  • 宇都宮家臣・芳賀高定に謀殺される

誕生・死没

  • 誕生:不 明
  • 死没:1551年
  • 享年:不 明

名 前

  • 太郎(初名)

所 属

官職・役職

  • 官位:修理大夫
  • 官位:壱岐守

親 族

略 歴

1509年…永正の乱の方針を巡り大関氏らに擁立され父・政資と対立し鳥山城を奪う
1539年…宇都宮尚綱や佐竹義篤、小田政治の援軍を受けた政資に鳥山城を攻撃される
1544年…父より正式に家督を譲られる
1549年…喜連川五月女坂の戦いで侵攻してきた宇都宮尚綱軍えお撃退し尚綱を討ち取る
1551年…宇都宮氏の家臣・芳賀高定の謀略にかかり、最終的には家臣の千本資俊に誘殺された

概 要

下野の戦国大名。政資の嫡男。父と対立し、父と結ぶ宇都宮尚綱に攻められるが尚綱を討って撃退した。のち尚綱の子・広綱と芳賀高定の謀略に遭い横死した。

父・政資との対立

那須氏18代当主・那須政資の嫡男として誕生する
その後、3代古河公方・足利高基より偏諱を受けて高資と名乗る。

1509年からの古河公方家の内紛(永正の乱)の方針により高資を擁立する大関宗増らが当主・政資と敵対、宇都宮尚綱や常陸国の佐竹義篤・小田政治と結んだ父に対抗するため、母の実家である陸奥国南部の岩城氏や結城晴綱、下総国の結城政勝・下野小山高朝兄弟と手を結び居城であった烏山城を奪い家督を強奪する。

宇都宮氏との対立

父・政資は宇都宮尚綱と手を結び高資に攻撃を仕掛けてくる。
1539年9月21日、には烏山城をめぐり宇都宮尚綱や佐竹義篤、小田政治の援軍を受けた父・政資の攻撃を受け。さらに1542年には味方の大関宗増が大田原資清の攻撃を受けている。
1544年頃には父より正式に家督を譲られたと見られ、独立心の強い那須家中の統制の強化を図るも失敗に終わっている。

その後、足利高基の子で4代古河公方・足利晴氏の命により侵攻してきた下野宇都宮氏と抗争に発展する。
1549年の喜連川五月女坂の戦いでは小勢でありながら伊王野資宗らの奮戦により、大軍を率いて侵攻した宇都宮尚綱を討ち取るという大勝を収め、当主を失った宇都宮氏の混乱に乗じ版図を塩谷郡の一部まで拡張することに成功した。

最 期

1551年、喜連川五月女坂の戦い以降、宇都宮氏に復讐の的とされた高資は宇都宮氏の家臣・芳賀高定の謀略にかかり、最終的には家臣の千本資俊に誘殺された(『関東古戦録』といった軍記物では、鴆毒を盛られたとする)。
ちなみに、これ以前より高資と重臣・大田原資清の娘を母とする異母弟・資胤とは家中で対立しており、高資は資胤を圧迫して追放する一方で佐竹義昭の子との養子縁組を進めていた。

人物増

人物としては武勇に優れ、好戦的かつ野心家で気性の激しい人物だったといわれている。

参考資料(引用元)