【】
那須政郡の三男
兄・資胤を補佐した一族の重鎮
那須 資郡
ポイント
- 那須政資の三男
- 那須の豪族森田氏の養子となる
- 兄・資胤を補佐した一族の重鎮
- 小田倉の戦いで活躍する
誕生・死没
- 誕生:不 明
- 死没:1566年
- 享年:不 明
官職・役職
- 不 明
親 族
略 歴
1560年… | 小田倉の戦いで活躍 | 1563年… | 大関高増らが佐竹氏に寝返る | 1566年… | 死 去 |
森田氏の継承
当初は福原資衝の娘を正室に迎え養子となり下野福原氏の当主となったが、後に大田原資清の次男・資孝を養子とし福原氏の当主の座を譲る。
しかし、森田氏を継承していた兄・資胤が那須氏の家督を継いだことに伴い、代わりに森田氏の家督を継いだ。
父・政資との対立
那須氏18代当主・那須政資の嫡男として誕生する
その後、3代古河公方・足利高基より偏諱を受けて高資と名乗る。
1509年からの古河公方家の内紛(永正の乱)の方針により高資を擁立する大関宗増らが当主・政資と敵対、宇都宮尚綱や常陸国の佐竹義篤・小田政治と結んだ父に対抗するため、母の実家である陸奥国南部の岩城氏や結城晴綱、下総国の結城政勝・下野小山高朝兄弟と手を結び居城であった烏山城を奪い家督を強奪する。
宇都宮氏との対立
父・政資は宇都宮尚綱と手を結び高資に攻撃を仕掛けてくる。
1539年9月21日、には烏山城をめぐり宇都宮尚綱や佐竹義篤、小田政治の援軍を受けた父・政資の攻撃を受け。さらに1542年には味方の大関宗増が大田原資清の攻撃を受けている。
1544年頃には父より正式に家督を譲られたと見られ、独立心の強い那須家中の統制の強化を図るも失敗に終わっている。
その後、足利高基の子で4代古河公方・足利晴氏の命により侵攻してきた下野宇都宮氏と抗争に発展する。
1549年の喜連川五月女坂の戦いでは小勢でありながら伊王野資宗らの奮戦により、大軍を率いて侵攻した宇都宮尚綱を討ち取るという大勝を収め、当主を失った宇都宮氏の混乱に乗じ版図を塩谷郡の一部まで拡張することに成功した。
一族の重鎮として
兄を補佐し一族の重鎮として活動し、1560年の小田倉の戦いではその戦功を兄より賞された。永禄6年(1563年)に大関高増や福原資孝らが上那須衆を扇動して佐竹義重に寝返った時も呼応せず、兄を支えた。
そして1566年に死去した。
森田資信という子がいたとされており、森田氏の家督を相続したが、1590年の小田原征伐に那須氏が遅参し改易されたのに連座して森田氏も改易処分となったという。