那須資21代当主
天下の情勢を読めずに改易される

那須 資晴なす すけはる

資晴の墓が所在する法輪寺

  ポイント

  • 那須家20代当主・資胤の嫡男
  • 宇都宮・結城・佐竹と渡り合う
  • 小田原征伐に遅参し所領を没収される

誕生・死没

  • 誕生:1557年
  • 死没:1610年
  • 享年:53歳

名 前

  • 太郎・弥太郎(幼名)

所 属

官職・役職

  • 官位:従五位下、大膳大夫
  • 官位:従五位下、修理大夫

親 族

略 歴

1557年…那須資胤の子として誕生
1578年…佐竹軍として小川台合戦に参陣
1583年…父・資晴の死去により家督を継ぐ
佐竹・宇都宮軍を撃退する
1585年…薄葉原に進出し、宇都宮氏・塩谷氏の軍を破る
その後、北条、伊達家と手を結び勢力を拡大
1590年…小田原征伐に遅参したため改易となる(大田原晴清の陳謝により、資晴の子・資景に5,000石の所領が与えられ、家名存続は許された)
1592年…文禄の役で名護屋城を守備
1600年…関が原合戦で東軍に属したため加増を受ける
1610年…死 去

概 要

那須家21代当主、下野烏山城主。小勢力ながら宇都宮・佐竹・結城氏らと渡り合い、勢力を広げた。
豊臣秀吉の小田原攻めの際に、遅参して改易となったが、のちに嫡男・資景が所領を回復し、初代那須藩主となる。
晩年は徳川家康のお伽衆を務めたとも言われる。

家督相続まで

那須氏20代当主・那須資胤の子として誕生する。
1578年の北条VS反北条軍の戦い(小川台の戦い)では反北条軍に父と共に出陣した。
1583年に父・資胤が死去し、家督を相続するとその直後、常陸国の佐竹義重が宇都宮国綱と共に攻め寄せるも撃退した

勢力拡大

1585年には、宇都宮氏の塩谷義綱攻撃のため薄葉原(栃木県矢板市山田)に進出し、宇都宮氏・塩谷氏の軍を破り真木城や乙畑城など宇都宮方の城を多数攻略し、勢力を拡大していった。
同年暮れには大関高増による千本資俊暗殺計画を了承して千本氏の勢力を解体した。その後、資晴は佐竹氏や結城氏、宇都宮氏と敵対しながらも後北条氏や伊達政宗などと手を結び、常に那須軍は寡兵ながらも奮戦した。豊臣秀吉の勢力が東に伸びてくると、これに敵対姿勢を見せる。

小田原征伐

1590年豊臣秀吉を警戒しの小田原征伐に遅参したため、改易となったが、重臣・大田原晴清の陳謝により、資晴の子・資景に5,000石の所領が与えられ、家名存続は許された。一説には奥州における一揆勢力と那須氏再興の動きが連携することを恐れたからだとも言われている。

その後の動き

秀吉より罪を許され、資晴自身にも5,000石が与えられて、文禄の役においても名護屋城を守備している。
1600年の関ヶ原の戦いでは子・資景が東軍に属して加増を受けた。1602年には資晴も徳川家康の御伽衆( 雑談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈などをした人。)に抜粋され1,000石を加増されて、その所領は6,000石となった。
その後、1610年に死去した。
なお、子の資景は、資晴の遺領も合わせて石高が1万4,000石に達し、那須藩を立藩、養子・資弥の代に資晴の悲願であったと言われている旧領烏山城に復帰している。

参考資料(引用元)