奥州斯波家に婿入りした南部一族

中野 康実なかの やすざね

 ポイント

  • 南部一族・九戸信仲の子
  • 斯波詮真の娘をもらい奥州斯波に婿入りする
  • 南部家に出戻り奥州斯波を攻撃する

誕生・死没

  • 誕生:?
  • 死没:?年

名 前

  • 九戸弥五郎→高田吉兵衛→中野直康→康実

所 属

官職・役職

  • 官位: 不 明

親 族

  •   父  : 九戸信仲
  •  兄 弟 : 九戸政実(兄)
  •  兄 弟 : 九戸実親(兄)
  •  兄 弟 : 久慈政則
  •  兄 弟 : 七戸家国の正室
  •   子  : 高田康仲
  •   子  : 中野正康

概 要

南部一族である九戸信仲の子。斯波詮真の娘をもらい斯波家に婿入りする。斯波詮直と確執が生まれると南部家に出戻り斯波家を滅ぼす。九戸の乱では実家の九戸側ではなく信直を支持し、豊臣軍の九戸城攻めの道案内を命じられた。従弟・九戸連伊と歓談中に口論となり殺害されたといわれる。

出 自

南部一族の有力支族・九戸信仲の子として生まれ、九戸弥五郎と称する。
三戸南部氏と抗争してきた奥州斯波・斯波詮真が南部晴政に破れた。そのため奥州斯波家は南部家と和睦するため、康実を女婿として受け入れ、南部家と和睦を行う。
その際、入嗣後に知行地として高田村(紫波郡矢巾町高田)が与えられ高田康実と名を改めた。

奥州斯波出奔

奥州斯波家の当主が詮真からその子・詮直(詮元)に替わると詮直と康実は確執してしまう(詮直があまり有能でなかったため)。そのため、1586年に奥州斯波家を出て南部家へ出奔する。
これに怒った詮直は南部領へ侵攻するが南部軍の反撃にあい逆に侵攻されてしまい、岩手郡見前、津志田、中野、飯岡の地(いずれも盛岡市内)を失ってしまう。
その際に康実は中野の領を受け賜り「中野康実」と改称、高水寺斯波家臣の諜略を命じられた。

奥州斯波家攻略

1588年、康実は奥州斯波家の有力家臣・岩清水義教らに諜略をしかけ謀反を起こさせた。
斯波詮直は義教の兄・義長に命じて、弟の居城である岩清水城を攻めさせるが、この混乱に乗じて南部信直が自ら出陣し斯波領へ侵攻した。
詮直は領内に動員令を発するも多くの家臣らは参陣せず、離反して南部軍に投降するか屋敷に籠り、高水寺城に駆けつけたのは岩清水義長、家老細川長門守、稲藤大炊助など少数だった。
康実が高水寺城攻めの先鋒を務め、斯波詮直は高水寺城を放棄して大崎氏のもとへ逃亡し、高水寺斯波氏は滅亡した。
康実は高水寺城から改称された郡山城の城代と、片寄城主を兼ねて3500石を供された。

九戸の乱と最期

1591年、九戸政実の乱が勃発すると康実は実家の九戸側ではなく信直を支持し、豊臣軍の九戸城攻めの道案内を命じられた。

九戸政実の乱の終結後、九戸落城で浪人した従弟・九戸連伊と歓談中に口論となり殺害されたといわれる。