小牧・長久手の戦いで池田恒興を討つ大功をあげる
永井 直勝
概 要
三河国の武将。父は長田重元。
信康に仕えるが、信康が自害すると、徳川家を去るがその後、再び家康の家臣となり小牧・長久手の戦いで池田恒興を討つ大功を挙げる。
大阪の陣後は上野小幡藩、常陸笠間藩を経たのち、下総古河において7万2000石を与えられた。
ポイント
- 三河出身の徳川家の旗本
- 信康に仕えた後に家康に仕える
- 小牧・長久手の戦いで池田恒興を討つ
- 上野小幡藩主、常陸笠間藩主を経たのち上下総古河藩初代藩主となる
誕生・死没
- 誕生:1563年
- 死没:1626年
- 享年:63歳
- 墓所:茨城県古河市西町の永井寺
- :京都府宇治市の興聖寺 (宇治市)
名 前
- 佐河田昌俊、喜六、
- 桃山・壷斎・黙々翁
- 臥輪・不二山人
- 黙々(号)
官位・役職
- 官位:従五位下、右近大夫
藩
上野小幡藩主→常陸笠間藩主→下総古河藩主
同い年の人物
- 朝比奈宗利、有馬純房、粟屋元貞、伊藤祐道、井上元常、上田重安、大島光政、太田源五郎、小野木重勝、海津局、加藤嘉明、鎌田政虎、川上忠実、京極高次、吉良親実、桑山元晴 後藤家信、坂崎直盛、鮭延秀綱、慈光院 (蜂須賀家政正室)、宍戸元続、島津新城、高木貞俊、高木正次、谷衛友、寺沢広高、西尾正義、畠山義春、孕石元成、北条夫人、細川ガラシャ 細川忠興、本田親貞、三宅康信、村上通清、屋代景頼、山口光広、山村良勝、吉弘統幸、米津田政
略 歴
1563年 | 0歳 | 誕 生 |
1576年 | 13歳 | 松平信康に仕える |
1579年 | 16歳 | 信康が自害する 徳川家を去る |
1580年 | 17歳 | 再び徳川家に仕える |
1584年 | 21歳 | 小牧・長久手の戦いで池田恒興を討つ |
1596年 | 33歳 | 豊臣秀吉から豊臣性を下賜される |
1600年 | 37歳 | 関ケ原の戦い |
1616年 | 53歳 | 上野小幡藩1万7000石に加増 |
1617年 | 54歳 | 常陸笠間藩3万2000石に加増 |
1622年 | 59歳 | 下総古河において7万2000石を与えられる |
1626年 | 63歳 | 死去 |
出 自
1563年、三河国の武将で大浜に羽城の守備を任されていた・長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の愛知県碧南市音羽町)に生まれる。
※愛知県東浦町緒川の説あり
徳川家での活躍
松平信康に仕えるが信康が自害すると徳川家を離れる
1576年、直勝は、はじめ徳川家康の嫡男・松平信康に仕えるが信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲(ひっそりと暮らす)した。
その後、1年後再び家康に仕えこととなる
小牧・長久手の戦いで池田恒興を討つ大功を挙げる
1584年、豊臣家との戦い「小牧・長久手の戦い」が勃発すると、正勝は織田家の重臣・池田恒興を討つ大功を挙げ、家康や織田信雄らから賞賛された。
また、その後の関ケ原の合戦でも家康に従い関ケ原合戦に従軍した直勝はその功により近江国に2000石を加増され7000石を領した。
江戸時代
大阪の陣で活躍
直勝は大坂の陣にも参戦して戦功を上げ、1616年上野小幡藩1万7000石に加増。翌年の1617年には常陸笠間藩3万2000石を与えられ、後に2万石を加増される。1622年、下総古河において7万2000石を与えられ、初代・下総古河藩主となった
その後、1626年63歳で死去した。
逸 話
小牧長久手の戦いの後
恒興の次男・池田輝政が家康の次女の督姫を娶った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際の事を語った。
このとき、直勝の知行が5000石と知った輝政は、父を討ち取った功績の価値が5000石しかないのかとがっかりしたという。