信玄の攻撃を2度も撃退した北信濃の猛将

村上 義清むらかみ よしきよ

村上義清

村上義清の肖像画

概 要

北信濃の葛尾城を本拠地とした豪族・村上氏の当主。武田信玄の攻撃を2度も撃退したが、最後は武田家臣・真田幸隆の計略にあい敗れる。
敗れた跡は越後の上杉謙信を頼った、これが謙信の信濃侵攻、川中島の戦いの背景になった。

  ポイント

  • 北信濃の名族、信濃村上源氏の当主
  • 信玄の攻撃を2度も撃退した北信濃の猛将
  • 信玄に敗れた後は越後の上杉謙信を頼った

誕生・死没

  • 誕生:1501年
  • 死没:1573年
  • 享年:72歳

名 前

      
  • 武王丸(幼名)
  • 日滝寺殿紅雲正清公大禅門(戒名)

官 位

  • 右京権亮、佐渡守、左衛門尉、左衛門佐、周防守、左馬頭、信濃守、兵部大輔、左近衛少将、従五位下、従四位下、正四位上

同い年の人物

  • 蠣崎基広、寒河江広種、相良長祗、策彦周良、島津忠長 (播磨家)、諏訪満隣 、内藤清長、細川氏久 (阿波守護家)、三好元長

親 族

村上顕国
斯波義寛
正室 小笠原長棟の娘
側室 於フ子(高梨澄頼の娘)
義利、義勝、義照、義邦、国清(山浦景国)
女子(村上義満室)、女子(内山清宗室)、女子(村上義房室)、女子(高梨頼治
女子(会田清幸室)、女子(屋代政国室)

略 歴

1501年 0歳   北信濃の戦国大名・村上顕国の子として誕生
1515年 14歳   元 服
1516年 15歳   従五位下に叙位。佐渡守に任官
1517年 16歳   父より葛尾城を譲られる
1520年 19歳   父が病没し家督を相続する
1521年 20歳   従四位下に昇叙、左衛門佐に転任
1527年 26歳   左近衛少将に転任
1536年 35歳   正四位上に昇叙
1541年 40歳   武田信虎・諏訪頼重と結び、海野、真田氏を倒し小県郡を支配
1548年 47歳   武田信玄の攻撃を受けるが撃退する(上田原の戦い)
1550年 49歳   再び武田信玄を撃退する(砥石崩れ)
1551年 50歳   武田家臣・真田幸隆により砥石城を攻略される
1552年 51歳   常田の戦いで武田信玄を破る
1553年 52歳   葛尾城を捨て長尾景虎を頼る
1561年 60歳   第4次川中島合戦
1573年 73歳   死 去

出 自

信濃村上源氏の流れを組む北信濃の名家村上氏で誕生する

北信濃葛尾城の名家・村上家で誕生する。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衡)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘であった。

村上家最盛期で家督を相続する

義清が家督を相続した時には佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収めており、そのため義清は村上家最盛期の当主であった。
しかし、当時の村上家の収める北信濃では越後長尾氏と関係の深い井上氏や水内郡の高梨氏と争い、東信濃では関東管領上杉家を後ろ盾とする小県郡の海野氏を押さえ込み、信濃の守護代であった佐久郡の大井氏を下して甲斐国の武田氏と抗争を続けていた。

小県の奪取

武田、諏訪と手を結び小県郡を掌握する

1541年、義清は武田信虎諏訪頼重と結び、海野平の戦いにおいて、海野棟綱真田幸綱(幸隆)ら滋野一族を駆逐して、小県郡を完全に掌握することに成功した。

武田信玄との抗争

信玄が諏訪氏を滅ぼしたことにより関係が悪化、武田家と対立するようになる

1548年、信虎を追放し、諏訪氏を滅ぼした武田晴信(武田信玄)との関係が悪化、義清は信玄の侵攻を受けた。
しかし、小県南部へ侵攻した武田勢を義清は「上田原の戦い」で撃退した。この戦いで義清は武田方の初鹿野伝右衛門を討ち取った。また、武田方は諏訪郡代・板垣信方や、甘利虎泰・才間河内守などの重臣を失うことになった。

砥石崩れ

1550年、村上義清が高梨政頼と戦っていて本領を留守にした隙に、再び晴信が小県の要衝砥石城に侵攻した。
義清は高梨氏と和睦を結んで急遽反転し、晴信は義清の後詰に戦況不利を判断して退却を開始するが、義清は武田勢を追撃し、大勝をおさめた(砥石崩れ)。この戦いで武田方は足軽大将の横田高松や郡内衆の渡辺雲州を始め、1000名の死傷者を出したという。村上方の死者は193名ほどであったといわれる。

真田幸隆に破れ砥石城を攻略される

海野平の戦いに破れ、武田信玄に仕えた真田幸隆は村方の武将を切り崩しや調略を行い勢力を削いでいった。その結果、1551年に砥石城の足軽大将・矢沢頼綱(幸綱の弟)が幸綱に内通し、砥石城が攻略された。これにより義清の影響力は一気に低下し、1552年の常田の戦いで勝利を収めるも、家臣団の動揺を抑えられなくなった。

武田信玄に敗れる

1553年には武田方に内通していた土豪・大須賀久兵衛尉が謀反し、また室賀氏、屋代氏、石川氏など村上方の諸将が武田氏に降伏した。義清は葛尾城を一時脱出、再度体勢を整え、一時は奪還に成功するが、武田晴信も一時甲府に引き上げ、大軍を率いて再侵攻し、義清は葛尾城を捨て越後に亡命した。

上杉謙信の家臣として

信濃から逃亡した義清は北信濃奪還を目指して謙信を頼る

信玄に敗れ北信濃から逃亡した義清は、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後国に落ち延びた。武田氏の勢力が越後長尾氏の本拠春日山城に近い善光寺平にまで及んだ。また、この事が背景となり川中島の戦いに続くこととなった。

謙信の家臣として

謙信の家臣となった義清は根知城主(新潟県糸魚川市)となり、嫡男の国清とともに上杉家臣となった。
国清は謙信の養子に迎えられて山浦姓を名乗り、上杉家第2位の地位を与えた。

第4次川中島の戦い

1561年、「第4次川中島の戦い」では村上義清は高梨政頼、須田満親と共に雨宮の渡しの守備を担当し信玄の弟でる武田信繁を討ち取ったとされている。

死 去

旧領の奪還の志の最中に病死する

1573年1月1日、村上義清は越後根知城にて病死した。享年73。仇敵・信玄の死の5か月前であった。日滝寺に葬られたというが、その墓所については根小屋地内の安福寺とも言われ、魚沼郡赤沢の説もある。坂城町田町の出浦家墓所中には後年(天正4年、慶長4年、没後百年など数説あり)分骨されたという墓所が残る。。

信玄を苦しめた北信濃の猛将

武田信玄のライバル?

義清は信玄の前半期における最大の敵であった。信玄は生涯に70余りの合戦に参陣したが、敗戦はたった3回だけだった。
そのうち2回は義清に喫したものだった。

義清の戦術

義清の自ら先陣を切って敵に突進する戦術を行った。これはやみくもに突撃したという分けでなく。長槍を浸かった非凡な戦術も編み出している。

逸 話

笄の渡し

1553年に葛尾城が落ちた時、村上義清の側室「於フ子」は千曲川対岸にある東国寺を目指して脱出し北へ走る。途中で千曲川にぶつかるが、機転を利かせた船頭によって対岸に渡ることに成功し、お礼に自らの笄を渡したという。
その後、夫の戦死の報を聞いて、子とともに千曲川に身投げしたと伝わる(しかし、義清戦死は誤報だった)

参考資料(引用元)