三好家の当主として三好家の畿内進出のきっかけを作った名将
三好 之長
概 要
三好家当主。三好長之の子で三好家の最大勢力を築いた長慶の大祖父。応仁の乱、明応の政変で活躍し三好家の畿内進出の足がかりを築いた
ポイント
- 三好家当主で長慶の大祖父
- 応仁の乱、明応の政変で細川政元に従い活躍
- 三好家が畿内へ進出するきっかけを作った
誕生・死没
- 誕生:1458年
- 死没:1520年
- 享年:63歳
- 徳島県板野郡藍住町勝瑞の見性寺
名 前
- 長輝(別名)
- 喜雲(法名)
- 主膳正、筑前守(通称)
- 喜雲道悦、節開正忠(戒名)
主君
- 細川成之→政之→政元→澄元
氏 族
略 歴
1381年 | 0歳 | 赤松義則の嫡男として誕生 |
1411年 | 30歳 | 侍所頭人を務める |
1414年 | 33歳 | 左京大夫に就任 父に変わり守護職を代行 |
1427年 | 46歳 | 父が亡くなり家督を継ぐ |
1428年 | 47歳 | 足利義教が6代目将軍となる 北畠満雅討伐軍に加わり、満雅の子・教具と幕府を和睦させる(北畠家の取次を務める) |
1438年 | 57歳 | 三人の家臣が義教に殺害される |
1441年 | 61歳 | 将軍・義教を暗殺 山名・細川家によって討伐され一族69名と切腹する |
出生と元服
播磨の名家・赤松家の当主・赤松義則の嫡男として誕生する
1381年、播磨国守護大名・赤松家の当主・赤松義則の子として生まれる。
元服時に室町幕府第3代将軍・足利義満より偏諱の授与を受けて満祐と名乗る。
父の代理として早くから政治の表舞台に立つ
父の代理として早くから政治の表舞台にあり、第4代将軍・足利義持の代になると、父の代わりに侍所頭人を務めたほか左京大夫に叙任され、守護職を代行している。
家督相続
家督をめぐって将軍・義持と対立する
1427年、父・義則が亡くなったため家督を継いだが、前将軍・義持が満祐の所領である播磨を没収して寵愛する側近の赤松持貞(満祐の又従兄弟)に与えようとした。
これに納得できない満祐は京都の自邸を焼き払って領国の播磨へ下り、一族を集めて合戦の準備を始めた。これに激怒した義持は残る備前・美作両国も奪ったうえで追討令を出すが、討伐を命じられた一色義貫らが出兵を拒むなど弊害があり、突如持貞と義持の側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追い込まれた。
満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免され、無事に赤松家の家督を継いだ。
将軍・義教の登場
室町幕府6代将軍に足利義教が就任する
1428年、将軍・義持が死去、その弟の足利義教が第6代将軍になった。
満佑は義教のと良好な関係を築き義教からの信頼も厚く宿老の1人として幕府内の長老格として権勢を振るまった。
しかし義教が有力大名を殺害しだすと、満佑の家臣3名も義教によって殺害されたほか、弟の義雅の領土が没収されて一部が遠縁の赤松貞村(持貞の甥)に与えられ満佑への対応も悪くなっていき、次第に両者の関係は悪くなっていった。
将軍暗殺
有力守護大名に介入し相次いで殺害、家督と守護職を没収してその一族や他の大名に分け与えるという強硬策に出る義教は満佑に対しても侍所別当の職を罷免させるなどの暴挙をおこなった。
これに対し満佑は幕府への出仕をやめるなどし義教と満祐の対立が先鋭化し、両者の間で不穏な噂も絶えなかったという。
将軍暗殺(嘉吉の乱)
1441年、加賀守護富樫教家は突如として義教の勘気を蒙り守護を解任され、加賀守護は僧になっていた弟の富樫泰高に与えられた。
それからわずか6日後、満祐は結城合戦の祝勝会と称して義教を自邸に招き、嫡子の教康と弟の則繁に命じて義教を殺害した。
その後、満佑は赤松一族の屋敷を焼き、領地の播磨へ逃れて足利直冬の孫とされる足利義尊を新将軍に奉じて対立した。
最 後
義教を失った幕府は足利義勝を立て赤松家討伐の命を出す
義教を失った幕府は、義教の嫡子・足利義勝を立て、管領の細川持之は細川持常、山名宗全、赤松貞村らをはじめ、西国の河野氏や吉川氏などを動員して赤松領に侵攻させた。
赤松家は一族の教康・則繁らの善戦で一時は幕府軍を圧倒したが、赤松討伐の綸旨が出されて満祐は朝敵とされた。
満佑の最後
播磨だけでなく美作・備前などにも山名軍ほか諸軍が攻め寄せて赤松家はことごとく敗北したため、満祐は防御力のほとんどない居城の坂本城から山城の城山城に籠もったが、城山城も幕府軍に攻められ、教康や則繁らを逃がしたあと一族69名と切腹自殺する。享年61。介錯は安積行秀が務めた。首級は山名教之の家臣・出石景則に奪われ、義教の遺児に見せられたのち、四条河原で晒された。
満佑の死後
細川家と協力し政所執事を失脚させる
1466年、宗全は勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる「文正の政変」を行った。
応仁の乱勃発
満佑の死後、従弟の満政、甥の則尚が赤松氏再興を狙い挙兵したが、宗全に鎮圧された。
しかし、その後又甥に当たる赤松政則が後南朝から神璽を奪回した功績で再興を果たした(長禄の変)
人 物
身 長
満祐はその背丈の低さから父と共に三尺入道などと呼ばれていたことから低身長症(軟骨無形成症・身長が120cm程)だった可能性もある。
性 格
性格が傲岸不遜、横柄で気性が激しかったという。
兄弟思い
満祐は弟の中でも乱暴者で知られた則繁と特に仲が良く、満祐は常に則繁を伴って行動していた。則繁が細川邸で暴挙に及び将軍の義持から切腹命令が出ても弟をかばったとされており、このため義持・義教の2代にわたって満祐は信頼されず、むしろ温和で有能な庶流家を厚遇したという。