3年間篭城の末、北条早雲に破れ相模三浦氏当主

三浦 義同(道寸)みうら よしあつ(どうすん)

居城:三浦義同の墓(神奈川県三浦市)

概 要

三浦高救の子。三浦時高の養子。養父・時高と対立し三浦氏を追放されると大森氏の支援を受け時高を討って家督を継ぐ。北条の大軍に攻められると新井城にて3年間に渡って篭城するが敗北し、自害した。

 ポイント

  • 相模三浦氏当主。父は上杉持朝の次男・三浦高救
  • 養父・三浦時高に追放されるが、大森氏の力をかり時高を自害に追い込む
  • 北条軍の攻撃の際は3年間に渡って篭城するが敗北し、自害し三浦氏は滅亡する。

誕生・死没

  • 誕生:1451年又は1457年
  • 死没:1516年
  • 享年:65歳

同い年の武将

名 前

  • 道寸(法名)
  • 三浦介(通称)

官 位・役 職

  • 官位:従四位下 陸奥守
  • 幕府:相模国守護代

所 属

親 族

実父 三浦(上杉)高救
養父 三浦時高
大森氏頼の娘
横須賀連秀(三浦氏庶流)女
兄弟 義同 (実父:高救) 、 義教(道香)
   正木義時
義意 、 正木時綱(異説あり)
   太田資康の正室

略 歴


1451年 0歳  三浦高救の嫡男として誕生
1462年 11歳  養父・時高が出家し家督を実父・高救が継ぐ
1486年 35歳  時高により三浦氏から追放される
大森氏を頼る
1494年 43歳  大森氏の支援を受けて三浦時高を攻め自害させる
1495年 44歳  北条氏が大森氏の小田原城を奪う
北条氏と対立
1498年 47歳  北条氏と同盟を結ぶ
1510年以降 59歳  北条氏と対立
1512年 61歳  北条氏が兵を挙げ三浦領に侵攻
新井城に籠城する
1516年 65歳  北条軍により新井城落城
三浦義同が自害

出 生

★ 三浦氏に養子へ

相模国守護・上杉持朝の次男・上杉高救の嫡男として誕生する。
その後、実父・高救が三浦時高の養子に入ると義同も併せて三浦家の養子に入り、親子は兄弟となった。

三浦氏の内紛

★ 時高に実子が誕生し家督争いが勃発

三浦氏当主・三浦時高は嫡子に恵まれなかった、そのため、時高は家督を養子の高救(義同の実父)に譲った。
しかし、高救に家督を譲った後に、時高に実子・高教が誕生したため、高救・義同親子と時高・高教親子は家督を巡って対立し不和となった。
そのため、高救・義同親子は時高によって三浦氏を追放された。追放された義同は、母方の親族である大森氏頼を頼り、大森氏領内の足柄下郡の総世寺で出家して道寸と号した。
※一説には義同の実父・高救とその実兄で扇谷上杉家を継承した定正との不和によって、定正に忠誠を誓っていた時高が義同を実家に送り返したとする説もある。

また、実父・高救は安房国へ逃げ、義同を影ながら支えたという。

三浦氏当主就任

大森氏の支援を受けて、力ずくで三浦氏当主に就任

1494年9月、義同は大森氏の支援を受けて新井城を攻めて時高および高教を滅ぼし、力ずくで三浦家当主の座と相模守護代職(後に守護となる)を手に入れた。
その後、実子の義意(荒次郎)に家督を譲って新井城に据え、自らは相模中部の岡崎城(現伊勢原市)に拠った。

※近年では義同が養父・時高を攻め滅ぼしたとするような大規模な軍事的内乱の発生を否定して、時高死後の三浦家中の混乱に乗じて義同が三浦氏に復帰し、その家督を奪ったとする考えもある。

北条氏(伊勢氏)との対立

伊豆の新興勢力、北条氏と対立する

三浦氏の家督を継いだ義同、関係が悪化していた主君・上杉朝良 (道寸の従兄弟)と和睦して、安房国の里見氏と同盟を結び周囲を固めた。

そんな中の1495年、西相模を抑えていた小田原城の大森藤頼(道寸の母方の叔父にあたる)が、駿河今川氏の伊勢宗瑞(後の北条早雲)によって城を奪われた。
早雲は伊豆国と小田原を本拠に、独立し戦国大名化を果たし、関東へ勢力を広げていた。
道寸は藤頼と共に早雲と争うが、早雲は山内上杉家と対抗するために、上杉朝良・三浦道寸に対して同盟を提案する。話し合いの結果、顕定が守護職であった伊豆を二分(宗瑞が伊豆半島を、道寸が伊豆諸島を領有)する事で和解が成立した。

その後、早雲と朝良は上杉顕定を「立河原の戦い」で破ったが、やがて両者は対立するようになり、必然的に扇谷上杉家傘下の三浦氏とも対立することになった。両者は激しい攻防戦を繰り返していくことになる。

三浦氏滅亡

3年の籠城戦の末。北条軍によって破れ自害する

1512年、北条早雲は大軍を挙げ、岡崎城に攻撃を開始した。圧倒的な兵力差に道寸は岡崎城を後にし弟の道香の守る住吉城(現逗子市)に退却し、抵抗を続けた。
しかし、道香も戦死し、道寸はさらに三浦半島の新井城へ南下し、扇谷上杉家へ援軍を要請した。
これを受けて援軍に向かった太田資康(太田道灌の子で道寸の娘婿)もまた、伊勢勢に迎撃されて討ち死にした。
道寸は息子・義意と共に新井城に籠城し、伊勢軍がこれを包囲した。新井城は三方を海に面した天然の要害であり、三浦水軍の軍事力を背景に持つ新井城の守りは堅固で、三浦父子は伊勢軍の攻撃を3年間に渡って凌いでいた。しかし、1516年、扇谷上杉氏の援軍が再び撃退された後、道寸は城を打って出て総攻撃をおこなうことを決心、三浦勢は城から出て大いに戦ったが、圧倒的な敵の前に全員が討死し、道寸も自害し三浦氏は滅んだ。

「油壺」の由来
落城の際に、討ち死にした三浦家主従たちの遺体によって港一面が血に染まり、油を流したような様になったことから、同地が油壺と名付けられたと伝わる。

義同最期の言葉

「うつものも 討たるる者も かはらけ(土器)よ くだけて後は もとのつちくれ(土塊)」

歌人・東常縁の指導を受けたともいわれている義同は、「うつものも 討たるる者も かはらけ(土器)よ くだけて後は もとのつちくれ(土塊)」という辞世の句を詠んで切腹した。 意味:討つ者も討たれる者も、所詮はいずれ死んだらばらばらになって土に戻ってしまう焼き物のようなものだ。