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東駿河の名家葛山氏の一族。医師でもあり信玄の侍医を務めた
御宿 友綱
ポイント
- 東駿河の名家葛山氏の一族
- 医師としても活躍し晩年の信玄の治療にもあたった
- 武田家滅亡後は北条、徳川と仕える
誕生・死没
- 誕生:1546
- 死没:1582年
- 享年:61歳
名 前
- 若丸(幼名)、左衛門次郎(通称)
- 監物(役職名)
略 歴
1546年 | 0歳 | 葛山綱春の子として誕生 |
1568年 | 22歳 | 武田家が今川領に侵攻 葛山家が武田家に内応(この時に友綱も武田家へ) |
1580年 | 34歳 | 家督を政友に譲り隠居 |
1582年 | 36歳 | 武田氏滅亡 板部岡江雪斎の家臣として北条氏に仕える |
1590年 | 44歳 | 北条氏滅亡 徳川氏に仕える |
1590年 | 44歳 | 北条氏滅亡 徳川氏に仕える |
1606年 | 61歳 | 死 没 |
概 要
東駿河の名家「葛山家」の一族。父は葛山綱春。武田信玄に若くして仕え、医師でもあり信玄の侍医を務めた武田家滅亡後は北条、徳川と仕えた。
御宿家とは
御宿家とは駿河の有力国人である東駿河の葛山氏の一族。『御宿』の由来は静岡県裾野市の御宿が発祥とされている。
居城は千福城。
ちなみに友綱は今川義元に仕えた重臣・葛山氏元の甥で、葛山綱春の子で 葛山貞氏の孫といわれる。生母は甲斐武田氏譜代の家臣・跡部泰忠の妹とされる。
今川家から武田家へ
御宿家の宗家である葛山家は当初・今川家に属していたため御宿家も今川家へ属していたと考えられる。
しかし、1568年に甲相駿の三国同盟が崩壊すると武田氏は駿河国へ侵攻、この際に葛山家と御宿家は武田家へ内応したされている。
武田家での活躍
友綱は武田信玄に若くして仕え、葛山氏の一族だったことから信玄の6男で葛山氏元の養子になった葛山信貞の後見人を務めたといわれる。
また、医師としても活躍しており晩年の信玄が病に倒れたときには、僥倖軒宗慶(板坂法印)と共に医師として信玄の治療に当たったともいわれる(『甲陽軍鑑』)。
また、葛山領内には当主が不在(当主は葛山信貞だが甲府に居住していたため)だったため、城代として友綱が在地支配を行っていた。
1580年12月、子の御宿政友に家督を譲って隠居する。
武田家滅亡後
1582年、織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡すると、友綱は北条氏の板部岡江雪斎の家臣としてに仕えた。
しかし、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏も没落すると、今度は徳川氏に仕えた。そして1606年3月21日に死去。享年61歳でした。