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武田・北条・結城家と渡り歩くが最終的に大阪城に入場し大阪夏の陣において戦死
御宿 政友
ポイント
- 東駿河の名家葛山氏の一族で御宿友綱の嫡男
- 武田・北条・徳川・結城と渡りあるく
- 大阪城に入城し、大阪夏の陣において戦死する
誕生・死没
- 誕生:1567年
- 死没:1615年
- 享年:48歳
名 前
- 綱秀(別名)、綱貞(別名)、正友(別名)
- 正倫(別名)
- 勘兵衛(通称)
官位・幕職
- 越前守
略 歴
1567年 | 0歳 | 御宿政友の子として誕生 |
1568年 | 1歳 | 武田家が今川領に侵攻 葛山家が武田家に内応(この時に御宿家も武田家へ) |
1580年 | 13歳 | 父・友綱より家督を継承 |
1582年 | 15歳 | 武田氏滅亡 北条氏(松田憲秀?)に仕える |
1590年 | 23歳 | 北条氏滅亡 徳川氏に仕える(その後、結城秀康に仕える) |
1607年 | 40歳 | 主君・結城秀康が死没 |
1610年 | 43歳 | 出奔し浪人となる |
1614年 | 47歳 | 大阪の陣が勃発 豊臣方として大坂城に入る |
1615年 | 48歳 | 天王寺・岡山の戦いにおいて戦死する |
概 要
御宿友綱の嫡男。武田家の滅亡後には北条家、結城秀康に仕えた。しかし、秀康の子・忠直の代に出奔して大坂城に入城、大坂夏の陣において戦死した。
大名家を転々と
政友の生涯は波乱に満ちたものだった。
御宿家は元々今川家に仕えていた葛山氏の一族で御宿家も葛山家同様に今川家に仕えていた。しかし、1568年に武田信玄が今川領に侵攻すると葛山氏と共に武田家へ内応し武田傘下となった。
武田家での生活中に父・友綱より家督を継承したが1582年に信長による甲州征伐により武田家が滅亡すると政友は北条家に仕えた。(松田憲秀とも)
その北条家も1590年に豊臣秀吉によって滅亡させられつと今度は徳川家康に仕えた後にに家康の次男である結城秀康に1万石という高禄で仕えた。
浪人生活
1607年に主君・秀康が死去した後は、秀康の後を継いだ松平忠直に仕えたが、忠直と不和になったため、1610年以降は浪人となった。
大阪夏の陣と最期
浪人生活を送っていた政友にある転機が訪れる、1614年の「大坂の陣」である。
政友「大阪冬の陣」が始まると豊臣方として大坂城に入り、大野治房を補佐した。
いざ合戦が始まると本町橋の夜討ちにおいて塙直之、米田是季らと共に功名をあげた。また一説には、真田丸に加勢として籠ったともいう。しかし、「大阪冬の陣」は豊臣方の惨敗で終わった
冬の陣から翌年1615年、「大阪夏の陣」が勃発すると。政友は再び大阪城に入城し、豊臣方として奮戦するも夏の陣の最終戦である天王寺・岡山の戦いにおいて、天王寺口で松平忠直家臣の野本右近に討ち取られた。
逸 話
父・友綱との勘当
『葛山家譜』によれば政友は幼少期に、父から勘当されて北条家に移ったと言われるが、武田家滅亡後は親子ともに北条家に仕えているため、もし勘当されたとすれば北条家滅亡後であると考えられる。父の友綱と弟の政綱(御宿源太)は、結城秀康に召し出された勘兵衛と行動をともにせず、政綱はのちに松平忠輝に召し抱えられた。
結城秀康への仕官の経緯
江戸中期の軍学者・大道寺友山によれば、御宿勘兵衛らは、以前は家康の家来であったが、それぞれ事情があって退去し、牢人していたところ、秀康に招かれ、登用された。秀康は、たとえ徳川家に背いた者であっても、「武士道の乙度(落ち度)」さえなければ己のもとへ招き、世をはばかって名を変えさせることもなく、以前と同じ姓名で仕えさせたという。
徳川家康の反応
徳川家康は、大坂夏の陣の前に大坂城に入城した武将の名簿を見て、「浪人衆の中で武者らしいのは、後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ」と語ったといわれる。
懸賞金
大阪の陣で豊臣方に付いた政友に対してかつての主君・松平忠直は政友の首に5千石の恩賞を掛けたという話も伝わっている。
大阪夏の陣で政友を討ち取った野本右近と政友は旧知の中であった。
政友が討ち取られる1日前、政友は敵方の野本に使者を出し「自分は不肖ながら大坂方の大将の一人として貴殿らに向かっているが、馬に不自由している。ついては忠直様の秘蔵の馬である『荒波』を拝領仕りたき旨、頼み入りたい」と伝えた。野本がこれを忠直に言上すると忠直は「この物言いをどうしてくれようか」と激怒したが、野本がそれをなだめた結果、忠直は政友に荒波を譲った。翌日の戦いで政友は荒波に乗って戦場を駆け、討ち死にしたという。
松平忠直と名馬「荒波」
大阪夏の陣で政友を討ち取った野本右近と政友は旧知の中であった。
政友が討ち取られる1日前、政友は敵方の野本に使者を出し「自分は不肖ながら大坂方の大将の一人として貴殿らに向かっているが、馬に不自由している。ついては忠直様の秘蔵の馬である『荒波』を拝領仕りたき旨、頼み入りたい」と伝えた。野本がこれを忠直に言上すると忠直は「この物言いをどうしてくれようか」と激怒したが、野本がそれをなだめた結果、忠直は政友に荒波を譲った。翌日の戦いで政友は荒波に乗って戦場を駆け、討ち死にしたという。(国事叢記)
妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ
家康の愛刀として有名な三池典太光世作の「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」は御宿氏伝来の刀であるとされる。 (明良洪範続編)