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謀反を企てるが失敗し逃亡する
松前 利広
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ポイント
- 蠣崎慶広の三男
- 松前藩家老として父の補佐を務める
- 甥・公広が家督を継ぐと謀反を企てる
誕生・死没
- 誕生:?
- 死没:?
官職・役職
- 官位:信濃守、長門守
略 歴
1615年 | ?歳 | 父と共に大阪夏の陣に出陣 | 1616年 | ? | 慶広が死去して甥・公広が跡を継ぐ 謀反を企てる |
1618年 | ? | 謀反がバレ逃亡する |
概 要
松前藩初代藩主・松前慶広の三男として誕生。学識高く、医術にも通じていたという。
盛岡南部家当主・南部利直の養子となるがその後、利直と不和になり松前家の下に戻り、松前藩家老として父の補佐を務めた。
慶広が死去して甥・公広が跡を継ぐと、松前藩主の座を狙って謀反を計画する。しかしこれは失敗に終わり船で藩を脱出し津軽の夏泊半島に流れ着いた。
出 生と南部家時代
松前藩初代藩主・松前慶広の三男として誕生ちなみに生母は側室といわれている。
利広は盛岡南部家当主・南部利直の養子となり南部信濃守利広と称した。
関ヶ原の戦いの際、南部一門として上杉景勝討伐のため慶長出羽合戦に最上、伊達連合軍の後詰要因で出陣している。
しかし、その後、利直と不和になって義絶されて松前家の下に戻っている。
父・慶広を補佐する
松前家に戻った利広は松前藩家老として父の補佐を務めた。
また。大坂夏の陣には、父・慶広と共に出陣し徳川家康の脇を陣取り、真田信繁隊とも刃を交えた。
謀 反
1616年に慶広が死去して甥・公広が跡を継ぐと、利広は松前藩主の座を狙って謀反を計画する。
当時、公広の寵愛を得ていた側近の杉山平内と結び藩を乗っ取ろうとしたというのである。
しかし平内と仲の悪かった杉山一族の杉山勘介が公広に密告し、1618年7月26日、公広に捕縛される前に藩から船で脱出した。(諸説あり)
船で藩を脱出した利広は津軽の夏泊半島に流れ着いた。利広は、その地で蠣崎彦左衛門利広と称した。子孫も代々、蠣崎彦左衛門を称している。