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大阪夏の陣の戦功により武蔵国八幡山を領した
松前 忠広
ポイント
- 蠣崎慶広の次男
- 蠣崎家の分家として徳川秀忠に仕える
- 武蔵国八幡山2000石を領す
官職・役職
- 官位:従五位下若狭守
略 歴
1580年 | 1歳 | 蠣崎慶広の次男として誕生 | 1597年 | 18歳 | 元 服 | 1599年 | 20歳 | 上洛し徳川家康に謁見する | 1604年 | 25歳 | 江戸で分家し徳川秀忠に仕える | 1610年 | 30歳 | 下総国結城で1000石を与えられる | 1615年 | 35歳 | 大阪夏の陣で戦功をあげ武蔵国八幡山を称す | 1617年 | 38歳 | 死 没 |
概 要
松前藩初代・松前慶広の次男。父から江戸で分家することを許され、徳川秀忠に仕え下総国結城で1000石を与えら、また、関が原で活躍し1000石を加増された与えられ、従五位下・隼人正に叙任する。
出 生
松前藩祖・松前慶広の次男として生まれる。
父・慶広の嫡男だった盛広の同母弟で、幼少期から詩歌や武勇に優れた聡明な人物だったという。
1599年には父と上洛して徳川家康に拝謁したという。
徳川秀忠の家臣として
1604年には父から江戸で分家することを許され、徳川秀忠に仕えた。
その後、1610年には下総国結城で1000石を与えられ、従五位下・隼人正に叙任した。
大阪夏の陣
大坂夏の陣で、忠広は二箇所手傷を負いながらも、豊臣方の高名な武将を討ち取る戦功をあげた。またこの時に家康自ら忠広の創口に薬を塗ったとされる逸話も残っている。
その後、慶広は茶臼山の家康本陣に馳せ参じた時、家康から感謝の言葉を賜ったとされている。
この活躍により忠広は武蔵国八幡山で1000石を加増された。
最 期とその後の忠広系松前家
1617年、秀忠の上洛に従ったが病に倒れ、伊勢国桑名で没した。享年38であった。
その後、忠広系松前家は跡は子・直広が継いだ。
ちなみに宗家の盛広系松前家が5代目の矩広で絶えると、6代目からは忠広の曾孫が宗家を継ぎ、以後は忠広系松前家として幕末まで続いた。